葛の話シリーズ第十五話

 

葛で町おこし 石見西田葛の今昔

 

 

島根県日本海沿岸のほぼ中央部にある人口五〇〇〇ばかりの小さな町温泉津(ゆのつ)は、奥まった湾が天然の良港を用意してくれていることで、つとにその名が高かった。また、含土類(石膏)弱食塩水が湧き出る湯治場としても山陰地方では良く知られている。しかし、この町が北前船の寄港地にまでなっていたのは、何と言ってもここが石見銀山から産出される銀の積み出し港であったからなのだ。

 

温泉津港から大田市大森町の石見銀山跡へ通ずる旧銀山道のなだらかな坂道を登って行くと、降露坂をひかえて谷が狭まり、勾配が急になり始める辺りで、道路に沿って七六戸(住民約二百人)の人家が立ち並ぶ集落が見えてくる。ここはその昔、山陰の銘産として呼び名が高かった「石見西田葛」の里、邇摩郡温泉津町湯里地区西田(現大田市温泉津町西田)である。石見銀山が降盛を誇った慶長(一五九六~一六一五)から文化(一八〇四~一八一八)にかけては、温泉津港へ陸揚げされた物資は西田で荷継ぎされ、山越えして銀山へ運ばれていた。逆に銀はこの山道を下って西田で荷継ぎをし、温泉津港へ向った。このように、銀山道の中継地で、かつ宿場町であった西田は「西田千軒」ともてはやされるほど繁盛し、本陣をはじめ常設の芝居小屋、芸者置屋まであったと言う。

 

石見銀山は鎌倉時代(一一九二~一三三三)末に開かれたと言い伝えられている。大永六(一五二六)年には博多の商人が鉱山開発に尽力したと言われる。採鉱が本格化したのは江戸時代に入ってからで、鉱山町として大森の町が誕生した。最盛期のこの町の人口は二〇万もあったそうである。

 

鉱山が最も栄えた頃の採鉱従事者数は不明であるが、享保八(一七二三)年には採鉱従事者は一〇四一人で、その妻子が一八一六人いたと言う。これはなかなかの大世帯である。しかし、嘉永(一八四八~一八五四)の頃には採鉱従事者は一七〇人に減ってしまっており、銀山の衰退ぶりがうかがえる。なお、閉山は大正十二(一九二三)年である。

 

一方、西田で葛粉製造が始まったのは今から約七〇〇年前だから、石見銀山が開かれたのとほぼ同時期である。当時、葛粉は自家用、湯治場の土産用以外に、鉱夫たちの滋養・健康食品としての特別な需要があったものと思われる。正徳年間(一七一一~一七一六)には葛屋久四郎なる者が製葛業を起こし、商品生産を始めたのは、まず銀山が栄えて大森の町をはじめ、銀山街道周辺の人口増により地元での消費が増えたことが最大の理由であろう。銀とともに葛粉が石見銘産として知られるようになり、土産用の需要が増大したことも一因なのだろう。文化八(一八一一)年に太田蜀山人が著した「石州鉱山見聞草稿」には、西田葛が石見名物として登場している。

 

銀の産出は減少したが、葛の方はますます盛んになってきた。明治(一八六八~一九一二)初期には渡利八郎治らの有力な生産者が出て品質を向上させ、包装を統一し、販路を京都、大阪方面へ伸ばした。

 

大正五(一九一六)年頃に西田葛は最盛期を迎えている。昭和四(一九二九)年には郡農会の指導により副業組合(後の石見西田葛出荷組合)が結成された。昭和(一九二六~一九八九)の始めに出た「島根県名産物番付」によると、西田の葛は名物の方の前頭七枚目に格付けされている。当時の西田葛の生産高は年間九トンに達していた。その後西田の葛粉づくりは次第に衰えながらも何とか続いていたが、昭和三五(一九六〇)年には完全に跡絶えてしまった。

 

西田葛復活の原動力となったのは、脱サラして神戸からUターンした西本里美さんである。氏は、年老いた父助市さんの看病のために、昭和五四(一九七九)年に西田に帰ってきた。

 

西本さんが製葛業を志した第一の理由は、これが両親の面倒を見ながら出来る職業であるからなのだが、ただそれだけではない。生れ故郷で暮らすうちに、過疎地になった西田に活気を取り戻したいという願望がふつふつと湧いてきた。せっかく郷里へ帰ってきたのだから、地元の活性化につながる仕事につきたいという思いが日毎に募ってきたのである。

 

子供の頃、風邪で寝込んだとき、あるいはお腹をこわしたときに母が作ってくれた葛湯を、今度は自分が作って、病臥する両親の口元へ運びたい。西田葛の復興をめざそうとした時、西本さんの心の片隅に、こんな気持ちが密んでいたであろうとする筆者の推測は、あながち見当外れだとは言えないだろう。

 

葛粉づくりを思い立ったとき、西本さんは販売用の葛粉を詰める紙袋のデザインを決めていた。中央には昔通りの商標「寒晒・石見西田葛」の文字を、赤地に白ぬきとして配している。それを取り囲むように、、黄色の背景の中に赤い花房と緑葉を着けた褐色のクズの蔓を立ち登らせた。そして、全体を青色の枠で縁取っている。良く目立つ、力強い絵柄である。

 

西本さんをバックアップしたのは、結成一〇周年を迎えて、地域活性化に関連する事業の支援を企画していた西田の青壮年町おこしグループ西田会(一九八五年当時の会長中西義昭)であった。この頃、ちょうど筆者は「澱粉食品工業の原点ー葛粉(食品工業三一巻十二号(一九八八)に掲載)」を執筆するために資料を集めている最中で、石見西田葛の現状を温泉津町教育委員会に問い合わせていたところ、「西本さんがただ一人西田葛を守っている」との報告を受け取っている。

 

筆者が西田会に招かれ、葛粉製造について講話したのは、地元銘産の西田葛を見直そうという気運が高まっていた平成二(一九九〇)年の冬のことである。この年には二度にわたり温泉津を訪れ、西田製葛の歴史と現状、復興計画等を調査し、食品工業三四巻七号(一九九一)に「葛粉製造の復活で町おこしー石見西田葛(島根県邇摩郡温泉津町)」のタイトルで紹介している。

 

製葛の再興に賭ける努力と情熱が認められ、西本さんは平成三(一九九一)年に「安田生命クオリティ・オブ・ライフ文化財団」の「地域の伝統文化保存維持費用助成制度」から助成を受けるまでになった。このように、西田葛の復活がようやく確実視されるようになった平成六(一九九四)年の一月三〇日のこと、大事件が出来(しゅったい)した。

 

西田葛再興にとって肝心要の西本さんが急逝したのである。氏は昭和五六(一九八一)年には父、同六〇には母ふみさんの末期を看取っており、わが身一つになっていた。一方、西田葛の復興はもう少しで軌道に乗るところまで漕ぎ着けている。これから葛粉づくりに全力を注ぎ込めると本人は意気込んでいたのだ。

 

筆者は、西本さんを常に励ましてきた西田の端泉寺住職三明慶輝さんからの急な知らせを受け、慌てて弔電を打った。

 

西本さんの身寄りと言えば、町内には寝たきりの義兄が一人いるだけである。約二週間の入院中の介護、葬儀の手配から遺骨の埋葬に至るまでの世話は、西田会の方々が力を貸した。

 

西本里美享年六四、法名釋静美。

 

遺骨は西田にある西本家先祖代々の墓に納められている。

 

中西さんを始め、西田会の方々、地元住民の悲しみと落胆ぶりはその場に居合わせなくても想像がつく。西本さんの死去により西田葛復活が危機に落ち入ったことは、筆者のような部外者でも明らかであった。

 

石見西田葛の伝承者西本里美さんが亡くなった後も、筆者は端泉寺住職三明慶輝さんと連絡を取り合い、西田葛の消息を掴めるようにしていた。氏は葛粉づくりを細々ながら続ける一方で、西田葛復活のために行政への働き掛けを怠らなかった。また、葛粉製造の本格化が駄目なら一時休止し、葛の蔓編み細工導入の方向でも模索を始めていた。このように、葛を活用した町づくりにかける三明さんの情熱は衰えることを知らなかった。

 

三明さんは製葛復活に強い関心をもつ西田会および地元婦人会の人たちとともに平成十二(二〇〇〇)年二月二十日から一泊二日の日程で、クズを活用して地域活性化を計る兵庫県氷上郡山南町と福井県遠敷郡上中町をマイクロバスで訪れた。そして、クズによるピナトゥボ緑化の話を聞いたり、クズの蔓編み細工、葛粉製造を見学した。そんなことを耳にして、筆者はいよいよ西田葛が本当に動き出すのではないかという予感めいたものを覚えた。

 

今(平成十三)年春には、三明さんからクズ根の破砕機と、破砕した根のしぼり機のカタログの入手依頼を受けた。町は製葛作業にも使える延床面積二七五平方メートルの婦人若者等活動促進施設を建てるために九千四百万円の予算を経上しており、この施設は平成十三年度内に完成する見込みであると言う。建物が出来上がったら、葛粉生産への地元の意欲はさらに高まるであろう。生産工程をある程度機械化すれば生産量も向上できると思っている。

 

ところで、大田市大森町の石見銀山遺跡が世界遺産候補に指定されたので、銀の積み出し港として栄えた温泉津町でも、当時の面影を残す町並みを保存するために伝統的建造物群保存条例を制定した。この条例の主旨に沿って町内温泉街の女将さんたちが町並み保存を実現する会を結成したというニュースが筆者のもとへ伝わって来ている。

 

大森銀山と温泉津港とを結ぶ銀山街道の中継地である西田の町づくりは今がチャンスだ。だから、西田葛の復活を町づくりの柱にしようと、西田会(中井秀三会長、会員二五名)と婦人会は地元の古老武田重義さんの指導を受けて葛粉づくりに余念がない。武田さんは九二才といえども葛粉づくりではまだ現役を務めていると言う。婦人会のメンバーに囲まれて葛粉の出来ばえを鑑定する氏の眼差しは鋭い。報道写真でお見受けする限りでは、筆者が前回にお会いした一〇年前と変わりなく、お元気そうだ。あのとき、筆者の問い掛けに、「製葛共同作業場が建ったら真っ先に駆けつけ、手伝いたい」と即答されたが、それはすでに現実のものとなっている。筆者も馳せ参じて、西田葛の商品化・産業化の方面で何かアドバイスが出来たらよいと思っている。

 

なお、今(二〇〇一)年七月半ば、三明さんは友人の大田市明善寺住職龍末崇真さんとともに、クズの栽培化を検討するために筆者を訪れられたが、栽培化は製葛振興にとっては重要課題である。龍末さんはクズ畑用地を確保し、根掘りに必要なショベルカーの運転免許をも取得されたそうである。クズの栽培化が可能なら、石見西田葛の復興だけにとどまらず、わが国製葛業界全体にとって朗報がもたらされることになろう。

 

不幸に遭遇するかと思えば、幸運にも恵まれる。次の話は西田葛に運が向いて来たことを示すものだ。

 

西田葛には力強い助っ人が加勢しだした。小説「てんのじ村」で知られる直木賞作家難波利三さんの出現である。昨(二〇〇一)年一月にリブリオ出版から出た「愛蔵版県別ふるさと童話館(三十二)島根の童話」には、難波さんが特別に書き下ろした「葛の里」の話が載っている。

 

ある冬のこと、湯里地区の小学生良太は、一人暮らしのおばあさんの慰問に行く途中、雪の降りしきる山道で、「おいこ」を背負って、杖をついた白髪の葛根堀りの老人に出合った。八の字を描いた白くて長い眉と、やさしそうな目、それに瓜実顔が良太にはとても印象的だった。そのおじいさんは、地区の子供たちが中国の砂漠緑化のためにクズの種子を集めていることを良太から聞いて、「それでは、種子を取って送ってあげよう」と気軽に約束してくれた。

 

ところで、この話を慰問先のおばあさんにすると、良太が雪中で出合った老人は伝説的な葛根掘り名人で、五十年も前に亡くなった清蔵じいさんに違いない、と何かいわくありげな面持ちで言った。

 

その年の秋も終わる頃、学校へたくさんのクズの種子が見知らぬ人から届けられたことを、子供たちは校長先生から聞いた。良太には、クズの種子はあのおじいさんからの贈物のような気がしてならなかった。

 

この童話を読み終えたとき、筆者は山も野も白一色に塗りつぶしてシンシンと降り積もる雪景色を想い起こさせる無機的な爽快さと、それでいて何かしら人間的な暖か味のある読後感に浸っていた。

 

清蔵じいさんがクズの種子採りを手伝ってくれたと言うこの物語に導かれて、今後は西田葛に対する湯里の子供たちの関心も次第に高まってゆくに違いない。泉下に黙して眠る西本里美さんにも、間もなく西田葛復活のどよめきが伝わって行くことだろう。

 

余談になるが、四回にわたり紙面を借りて、石見銀山に関連する話題を取り上げてきたものであるから、世間で長らく流布されてきた「石見銀山鼠取り」という有名ブランドを示すキャッチフレーズについての誤った思い込みを、この際正しておきたい。

 

前記の文句は「よく効く石見銀山産の殺鼠剤」というほどの意味なのだろう。ところが石見銀山では殺鼠剤が製造されたことはない。この誤りは、「殺鼠剤(硫砒酸)が石見銀山から産出する砒石(砒素の原料)から製造されている」という江戸時代の著名な本草書の解説が鵜呑みにされてきた結果生じたものだ。実は、硫砒酸は島根県鹿足郡津和野町北部の笹ヶ谷銅山で製造されていた。硫砒酸は石見銀山をを所管とする大森代官所へいったん収納され、そこから全国へ流通していたため、このような誤解が生じたのである。今後、大森銀山が世界遺産の指定を受けたなら、「石見銀山西田葛」のキャッチフレーズが世界中へ宣伝されることを願ってやまない。

 

神戸大学名誉教授 津川兵衛