葛の話シリーズ第二十九話

 

 

「葛」が紙面で踊った日

 

 

 

平成十七年七月二十九日(金)発行の讀賣新聞夕刊を手にしたときは本当に驚いた。第一面のとっぱなの見出しには、「旧葛」と「葛」の黒地に白抜きの大きな文字が並んでいた。それは、マイクロソフト社が平成十八年発売の基本ソフトで使用する日本語の漢字百四十八文字の字体変更を決めた記事である。

 

 

漢字のうち、常用漢字、人名用漢字、表外漢字は内閣告示や規則などで字体が決まっているのだが、パソコンなどの情報機器で扱うJIS漢字の一部では、簡略化された字体(たとえば葛が旧葛と簡略化)が使われていた。しかし、平成十六年二月に発表された新JIS漢字では、略字「旧葛」は表外漢字「葛」と同じ字体に切り替えられている。マイクロソフト社によると、日本の漢字文化を尊重して伝統的な字体を採用することに決めたそうである。「葛」の文字が表わす象形的な意味を調べたことがある私としては、マイクロソフト社の英断には諸手をあげて賛成したい。

 

 

鎌田正・米田寅太郎著大漢語林(大修館書店平成四年発行)に基づき、「葛」の象形的構造を分析してみよう。「葛(クズ、カツ)」の文字は次のように順次分解することが出来る。まず、「葛」は「くさかんむり」と「曷(カツ)」に分けられる。「くさかんむり」は植物を表わす。一方、「曷(カツ)」は「日(ニチ)」と「匃(カイ)」に分割できる。「日」は太陽のことである。「匃(カイ)」は「勹(ホウ、つつみがまえ)と「兦=亡(ボウ)」に二分できる。「勹」は、人が前かがみになって物を抱えるさまを表わす。「兦」は「L(支持物)」と「人(人間)」からなる。

 

 

次は、逆に文字を組み立てて行くことにする。「兦」は、「人(人間)が「L(支持物)」がないと倒れる状態にあること、すなわち死者を意味する。人が前かがみになって「勹」、死者「兦」の蘇生を迄い求めるさまを表す文字「匃」は、いつしか「乞う」、「求める」の意味をもつようになった。「曷」は「太陽を求める」の意味があり、転じて「高く上がる」ことを表すようになった。高く巻き上がる「曷」草「くさかんむり」ということで「葛」の漢字がクズと呼ばれる植物の名として使われるようになったのであろう。

 

 

旧JIS漢字「旧葛」のように、「勹(つつみがまえ)」の中が「ヒ(ヒ・・さじ、やじり)」の「匂(におう)」は、漢字「匀(ととのう)」から転じた国字で、平安時代(七九四~一一八三年)中期から用いられていたと言う。したがって「旧曷」では「高く上がる」の意味を示す文字にはならないから、象形的に言って「旧葛」をクズという植物名に用いるのは妥当ではない。なお、わが国では植物名クズには奈良県吉野郡の地名「國樔」が当てられていたのだが、のちに「葛」に変わったものである。植物名クズは中国名では「葛藤」と書く。これは「藤本(つる)植物であるクズ」の意味である。

 

 

話は変わるが、一九八四~八五年にかけて一年半の間、現在米ルイジアナ大学モンロー校純正・応用科学部生物学科の教授として教育・研究に励んでいるトーマス・W・サセック博士が、フルブライト研究員としてクズの生態学的研究のため私の研究室に滞在した時のことである。初対面の挨拶の中で、氏はクズのことを「カズ」と発音した。クズの英名は「Kudzu」と綴るので、当然英語では「カズ」と発音することになる。しかし、この発音では植物名「クズ」の語源「國樔」にはたどり着けない。同様な意味で、「葛」のかわりに「旧葛」を使えば、クズという植物の生育特性をとらえて字形とした漢字の成り立ちを無視したことになる。

 

 

「旧葛」の字は漢字を簡便に使うために作られたものであるが、漢字は単なる記号ではなくて、表意文字であることを改めて認識して、字体のもつ意味を十分に把握したうえで簡略化を試みるべきだった。

 

 

平易な文章を書くために仮名書きを多用したり、パソコンが普及している今日では、漢字を手書きする機会は極端に減少している。したがって、漢字の複雑な字体に悩まされることは少なくなった。だから、漢字をこれ以上簡略化する必要はないと思う。むしろ、漢字の成り立ちを詳しく教え、漢字文化の保全に努めるべきだろう。その方が子供たちの国語学習がずっと楽しくなるはずだ。パソコン打ちした「旧葛」の字を目にするたびに、私がこの文字や漢字全般について抱く感懐を述べる機会に早くめぐり会いたいと願っていた。

 

 

神戸大学名誉教授 津川兵衛