葛の話シリーズ 第五十話

 

トム君の思い出

 

 

一九八二(昭和五十七)年の春、神戸大学の私の研究室へアメリカから一通の手紙が届いた。近々、クズの研究で博士号をもらえるので、学位取得後、直ちに日本へ留学して私の指導の下でクズについて研究したいという文面だった。手紙を読み進むうちに、次第に心臓の鼓動が高まるのを覚えた。年はくっているが、まだ助手の身分だった私のような者のところへ、留学を希望するアメリカ人がいるとは驚きだった。何しろ、当時の私の英語力は誠にお粗末で、アメリカ人に手伝ってもらって、何とか英語論文を2篇書いたところであった。日常英会話もろくすっぽ出来ない私のところへアメリカのポスドグの研究員が留学を希望してくるとは全く信じられなかった。何かの間違いではないかと思ったほどだった。その時、私は既に一九八三(昭和五十八)年九月からオーストラリア・クインズランド州ブリスベンにあるCSIRO(オーストラリア連邦科学産業研究機構)の熱帯作物・草地部門カニンガム研究所への留学が決まっていた。だから、一九八五(昭和六十)年以降なら神戸大学で受け入れ可能である旨返事を書いた。本人の了解を得たので、その後私はオーストラリア留学前の英語練習のつもりで、幾度も彼に手紙を書き送った。主に日本や神戸のこと、過去の私の研究内容、オーストラリアでの抱負など、実に他愛無いものであったが、直ちに返事をくれた。

 

私は留学中もオーストラリアから何度か手紙の遣り取りをした。トム君は日本留学が待ち遠しいようであったが、私はあまり期待しないでほしいとも書いた。しかし、私はトム君との共同研究を円滑に進めるためにも、オーストラリア留学中に英語力の向上を図るべく決意を新たにした。

 

ここでトム君と呼ぶのは一九八五(昭和六十)年九月一日から一年半の間フルブライト教育交流計画を通じて、博士研究員として日本におけるクズの研究のために来日したトーマス・W・サセック博士のことである。フルブライト教育交流計画とは、日本の敗戦によって第二次世界大戦が終結してまもなく、アメリカの若き政治家J・ウィリアム・フルブライト上院議員が提案し、一九四六(昭和二十一)年夏に発足したアメリカ政府資金によるアメリカと諸外国との間の国際教育交流奨学金制度のことである。この留学奨学金の受給対象は大学院レベル以上の学生、教員、専門的研究者となっている。東京オリンピックの開かれた一九六四(昭和三十九)年に海外渡航が自由化されるまで、フルブライト奨学金制度は日本人にとってアメリカ留学の唯一の途と言ってもよいほどのものだった。この奨学金を受けて来日したアメリカ側の実態は知らないが、渡米した日本人、すなわちフルブライターはいわゆるエリートと言われる人たちであった。私が名前を存じている方々では国連事務次長をされた明石康さん、原子物理学者で東大総長、文部大臣を務められた有馬朗人さん、東大助手の時代から行動派の公害学者として知られ、後に沖縄大教授をされた宇井純さんがおられる。

 

私がオーストラリアから帰国した翌(一九八五)年の九月一日にトム君が来日した。当時、神戸大学農学部はまさに光合成研究の黎明期(れいめいき)にあった。温度と光をコントロールした人工気象室の中に鉢植えした植物体を置き、一枚の葉を薄い小型の同化箱中に挿入して、個葉の炭酸ガス固定量を測定していた。その頃、トム君は既に携帯型の光合成測定装置を使って、野外で植物体に着生したままの葉の光合成量を測定している。しかも、日本の農学、植物学分野ではまだ話題になっていなかった地球温暖化と関連付けた研究を行っていることに、私は注目していた。だから、トムくんの神戸大滞在は、この方面の研究者に大いに刺激を与えるに違いないと思った。しかし、残念なことに神戸大学は前述のような状態だったから、トム君が自身の光合成研究を進められるような条件を整えることは出来なかった。思案の末に、私がオーストラリアで二種のほ伏型マメ科牧草セントロシーマ・ピュベッセンスとデスモディウム・イントータムで実施した成長解析にならって、クズを三段階の栽植密度で栽培して、先ず乾物生産を調べてみようと思った。考えがまとまると、急にオーストラリア・ブリスベンのCSIROカニンガム研究所が懐かしく思い出された。ディック・ジョーンズとボブ・クレメンツという素晴しいサイエンティストが、私の研究が円滑に進むように種子と育苗場の手配、圃場整備、植物体採取器具の作成のみならず、スタティスティシャンと呼ばれる圃場実験の適正規模を評価する実験計画法の専門家との打合わせの場をも設けてくれた。ブリスベン郊外のサンフォード試験場へ同行して、試料採取を手伝ってくれたクリフ・トンプソンとサンフォード勤務で、試料採取に加勢してくれたジェフ・バンチの二人の陽気で働き者のテクニシャンの援助も有難かった。ところが、神戸大学ではトム君の研究を手伝えるのは私だけである。心細かったが、取越し苦労をしてみても仕方がない。いつものように、まあ何とかなるさ、と物事に対する持ち前の楽観的性癖を頼りにして、トム君との共同研究に当たることにした。

 

ここで、少しトム君の生い立ち、人となりについて触れておくことにしよう。彼の父はチェコスロバキア人、母はイタリア人であり、彼はブラジルで生まれた。幼少の頃はそこで祖父によって育てられている。長じて、アメリカ合衆国ウエスト・バージニアに移住した。家業は金物製造業であると言っていた。父親譲りか、母親譲りか、あるいは両親からの遺伝なのだろうか。われわれ日本人と比較すればトムくんは巨漢である。身長は優に百九十センチメートルはあるだろう。私は身長百七十センチ、体重は六十五キロと日本人としては標準的な体格だと思っているが、トム君は私の二倍以上の体重がありそうだった。風貌はと言えば、大相撲の把瑠都関が土俵を離れて団欒を楽しんでいる時に、こんな表情を見せるのではないかと思わせる柔和な顔立ちである。それに加えて、来日後に蓄えた短く整えられた口髭、やさしい微笑を浮かべて話すわかりやすい英語は、周囲の日本人に好感を与えずにはおかなかっただろう。彼はキーボードからはみ出しそうな大きな手で、タイプやパソコンを巧みに使いこなした。指先はとても器用で、色紙があれば、ツルでも、ウマでも、帽子でも、魚でも、何でも折ってみせる。その姿は実に微笑ましく感じられた。

 

来日時の私へのプレゼントに、自らクズの葉を描いた装飾用の皿を焼いてくれた。隣家の女性が窯を持っているので、時々使わせてもらっているとのことだった。後になって聞いた話しだが、トム君は来日前から俳句を嗜んでいたと言う。私の母は当時は元気で、俳句結社「南風」に所属して、句作に励み、吟行にもしばしば参加していたので、トム君の俳句の件を知っておれば、紹介して思い出話の一つも増やせたであろうと思うと、残念だった。しかし、彼が来日の目的のひとつにしていた鬼瓦の入手は見事にやってのけた。日本滞在中に瓦を購入して実家へ送っている。後にトム君の家を訪れた日本人の話では、鬼瓦を葺いた和風の門が築造されていたそうである。

 

来日からまだ日は浅かったが、学部内で早く知人・友人をつくるために、トム君の学位論文の概要を説明する講演会を催した。その時のトム君の自己紹介によると、彼は地元の高校を卒業してアイビーリーグのダートマスカレッジ生物学部に入学した。しかし、卒業後家業を継ぐ意志はなかったので、合衆国南部の名門校、ノースカロライナ州ダーラムにあるデューク大学大学院に進学し、森林環境科学を専攻している。大学院では、ファイトトロン(大型人工気象室)研究施設に所属し、ファイトトロン内で栽培したクズと自然群落を形成しているクズとを用いて光合成の研究を行ってきた。農学部に同学の士がいたら、御指導をお願いすると神妙に挨拶した。

 

トム君は炭酸ガスに対するクズの成長反応を研究している。炭酸ガス濃度が上昇すれば光合成速度が高まり、植物の成長に使われる光合成産物の供給は増大する。例えば空気一リットル当り六七五および一〇〇〇マイクロリットルの炭酸ガス濃度条件下で育てたクズは、六十日後には空気一リットル当り三五〇マイクロリットル(現在の炭酸ガス濃度にほぼ相当)の炭酸ガス濃度の条件下で育てた個体よりそれぞれ二〇および五一%の乾物生産の増加を認めた。また、クズは炭酸ガス富化により形態的にも影響を受ける。全茎長は炭酸ガス処理により四〇~六〇%増大し、分枝の数は五〇%増加した。これれらの結果は、大気中の炭酸ガス濃度が増すことによりクズの競合能力が飛躍的に強化されることを示している。

 

炭酸ガス濃度の上昇により、部分的に気孔閉鎖が起る。その結果、蒸散速度は減じ、植物体は水をより効果的に使えるようになる。したがって、旱魃(かんばつ)であっても植物体は水ポテンシャルの低下を遅らせることが出来る。このことから次のような推測が成り立つ。つまり、発芽後しばらくの間は根群の発達が不十分なため、クズの実生(種子から育った幼植物)は旱魃を乗り切ることが難しい。しかし、大気中の炭酸ガス濃度が上昇すると生育初期の実生の乾燥ストレスが減ずるので、実生の生存率は高まる。すなわち、種子繁殖には有利になるだろう。

 

最近では、大気中の炭酸ガス濃度の上昇が気候変動をもたらすことは周知の事実となっている。炭酸ガスが地球表面からの熱の放射を妨げることが炭酸ガスの「温室効果」と呼ばれるものであり、この効果によって地球の温度は大気圏外より高く保たれている。大気中の炭酸ガス濃度が現在(前出の空気一リットル当り三五〇マイクロリットル)の約二倍(前出の六七五マイクロリットル)になれば、地球の平均気温はセ氏一.五~四.五度上昇することが予想されている。なお温度上昇は高緯度ほど、また冬季の方がより大きいと考えられている。トム君はアメリカでは場所によってセ氏二~三度上昇するものと推定している。

 

アメリカにおけるクズの分布域の北限を決定する要因は、冬季の気温である。一~三月の平均最低気温はセ氏マイナス十八度の等温線が分布北限と一致する。冬季間の平均最低気温がセ氏3度上昇すると仮定すると、アメリカ北部でのクズの分布北限がどれだけ北上し得るかをトム君は予測している。クズは数百キロメートルも北へ広がり、さらに高地へも広がることを示している。一方、アメリカにおけるクズの分布西限を規定しているのは降雨量であるが(クズの分布域の西限では年降雨量は九〇〇ミリメートル)、大気中の炭酸ガス濃度の上昇によりクズの水利用効率が向上し、水ストレスに対する抵抗力が高まるため西方への分布を拡大することは言うまでもない。トム君は最後に、南北戦争では南軍は合衆国南部に追い詰められ敗れたが、今度はクズが北上して、じりじりと北軍を後退させ、南軍の仇討ちを果たしてくれているのだと述べて、悪戯っぽい笑みを浮かべながら講演をしめくくった。このクズの仇討ちの話を聞いていると、米国では、今でも南部の人たちの間では、南北戦争のわだかまりが受け継がれ、折にふれてさまざまな記憶とともに姿を現わし、敵がい心を募らせるのではないだろうかと思った。

 

トム君が滞在した一九八五~八七(昭和六十~六二)年当時の日米大学間の研究環境の較差には驚くべきものがあったのではないか思う。来日後間もなく、クズのポット試験のためファイトトロンを使いたい旨トム君から申し出があった。神戸大学農学部のファイトトロンといえば床面積一.五×一.五メートルほどの南向きの小部屋が横三連に並び、光源は太陽光依存で、温度制御が出来るだけのものである。三室のうちの一室は建設当初から故障続きで、トム君の滞在中は使用されていなかった。しかも、農学部のファイトトロンは一室を数名の研究者・学生が共同使用することになっている。デューク大のものと比べるべくもない。トム君は五千分の一a(アール)のポットに種皮処理済み(クズのような硬い種皮を持つ種子は、吸水できるように物理的・化学的手段で種皮に傷をつけること)の種子を植えてみたが、これでは実験にはならないと考えたのだろう。途中でやめてしまった。

 

神戸大学農学部は大阪湾を一望できる高台に建っている。教官や学生が使用する実験室や居室がある研究棟はエル字型(L)をした六階建ての建物で、長い一辺は南向き、短い一辺は西を向いている。各階とも中央に廊下が通り、両側に研究室が並んでいる。当時、私の所属する農学部作物学研究室は南向き研究棟の三階東端に五室と、この研究棟の同じく三階の西の端に、飛び地のようになった一室、計六室を所有していた。東の端の五室の配置は次のようになっていた。廊下を挟んで南側には、東から順に教授室、助手室、院生・学生の自習用の大部屋、助教授室が並んでいた。四年生の学生と院生十数名が大部屋に雑居し、自らの好む一角に席を占めて研究に励んでいた。この部屋は本来実験室用に作られていたので、中央には実験台が二基平行に据え付けられ、壁際には乾燥器、恒温器、その他雑多な小型機器、実験用ガラス器具、工作器具類を詰め込んだスチール製戸棚が所狭しと並んでいて、トム君の机が占める余地はなかった。廊下を隔てて北側にも二室あったが、両者とも実験専用で、一室にはスチール製の試薬戸棚や試料の熱分解時には、有毒ガスが漏れ出すドラフトが設置され、他の一室は学科共同使用の大型機器が入っており、こちらもトム君の居室には適しなかった。助手室つまり私の部屋は実験用に作られていたので、両端に水道、中央にガス設備を持つ実験台が据えられていた。私の机は南側窓辺に置かれ、東西の壁側はともに二段に積んだ本棚が占めていた。部屋の北側の出入り口付近には、何とか机一脚を置けるだけの空間はあったが、そこは教授室と学生たちの大部屋をつなぐ通路がわりに使われていた。このような状況からトム君の居室は飛び地の部屋で辛抱してもらうしかなかった。

 

トム君の宿舎は神戸港の埋立地ポートアイランドの一角にある神戸大学の留学生用宿舎インターナショナルレジデンスと決めていた。大学からは市バスでJR六甲道駅まで下る。そこから電車でJR三宮に出て、ポートライナーと呼ぶモノレールに乗り換え北埠頭駅下車、西方向へ徒歩約十分のところにある。通学には1時間弱を要する。車中から大阪湾岸や六甲山系、神戸の市街地や神戸港の素晴しい風景が一望できる。帰国後、トム君が日本留学中のことを思い出すとすれば、一番にこの神戸の百万ドルの夜景を堪能できたことではなかろうかと思う。

 

昼食はトム君を誘って、研究室の数名の学生とともに学生食堂で取った。来日直後のこと、私は昼食のおかずに納豆の小鉢を取った。続いてトム君も納豆を取った。トム君はかなりの日本通なので、来日前に納豆について聞いたり、ひょっとしたら納豆を食べたことがあるのではないかと何となく思って、納豆については特に説明しなかった。同行の学生たちも揃ってテーブルに着き食事が始まった。私が納豆をご飯の上にのせて口に入れると、トム君もぎこちなくではあるが、何とか箸を使ってご飯と納豆を同時に口に入れた。しかし、それを噛む間もなく、奇妙な声を上げて、一気に吐き出してしまった。私は気づかないふりをしてひたすら箸を進めた。これは私の大失態であった。

 

トム君の来日当時の神戸大学学長は経済学がご専門の新野幸二郎先生であった。先生は気さくな方で、学生たちと話すことを好まれたから、昼食は教官専用のカフェテリアより学生食堂を多用されていたようだ。ある日、食堂で私たちが食事を始めようとした時、先生が御飯と惣菜の小鉢を載せたトレイを持って私たちのテーブルに近づいて来られた。私は隣のトム君に「学長が来られた」と小声で知らせた。新野先生は英語が堪能な方であったから、私から紹介するまでもなく、直接にトム君に質問されていた。日本留学の目的、フルブライト教育交流のこと、デューク大は医学部を持つアメリカ南部きっての名門校であるとか、中曽根首相が訪米したとき、デューク大で講演したとか、話は弾んでいた。食事が済んで先生が立ち去られてから、トム君は「あの方は学部長なのか、学長なのか」と私に問い掛けてきた。私がディーンとプレジデントの語句を取り違えたと思ったからだろう。あの方はプレジデントだと繰り返し教えたので、トム君は学長と親しく話が出来たことに非常に感激した面持ちだった。

 

ある日、普段より遅れて昼食に誘うためトム君の部屋に立ち寄った。ノックをするとトム君の声がしたので、ドアを開けて入ろうとすると、予期せぬ来訪者がこちらに背を向けて座っておられたのには少々驚いた。それは農学部切っての英語自慢の先生だった。その方は無言で照れ臭そうな顔をして慌てて出て行かれた。その時、この先生はトム君をご自分の英会話の練習台にされていたに違いないと想像したが、外れてはいなかっただろう。

 

珍しく神戸大学にフルブライターが滞在中とのことを聞きつけられたのだろうか。ある全国紙の女性記者が取材に訪れた。私はトム君の部屋へ案内したが取材には同席しなかったので、どんなことが話し合われたのかは知らない。帰り際に記者氏は私の部屋へ立ち寄って、トム君をまるで流罪人のように処遇していると言わんばかりの言葉を残して帰られた。この記者氏はフルブライターだったのかも知れないという想いが私の脳裏をよぎった。

 

ある日、トム君に関西在住のフルブライターの同窓会から会合出席への招待状が届いた。私もトム君に同行するように求められたが、私は当日は所用があったので遠慮させてもらった。当時はわが国各界の上層部にはフルブライターが多数おられたのであろう。トム君によると盛会だったそうだ。これもトム君の日本留学の楽しい思い出の一つとなったことであろう。

 

夏休みには、草地生態研究会の現地研修会に私はトム君を伴って出席した。本研究会は毎年会報を出しており、現地研究集会と称して全国のススキ・ササ・シバ草地を巡って野草地の生態学的研究を行っていた。この年は名古屋大学が当番校で、私の恩師である名大農学部付属農場長をされていた佳山良正先生が世話役だった。地名は失念したが、長野県境に近い愛知県のススキ草地が調査対象となった。参加者は東北大、筑波大、千葉大、東大、名大、神戸大、神戸女学院大からの約三十名であった。現地に夕方到着し、翌日丸一日を調査とデータの取りまとめに当て、夜は懇親会を持った。翌日は午前中に調査結果の報告会を催し、昼前に散会となった。今回の現地研究集会には、当時千葉大の理学部長であった沼田真先生が出席されていた。先生はIBP(国際生物学事業計画)で草地生産力研究部門の日本代表を務められた世界的に著名な学者である。IBPとは国際学術連合(ICSU)の主催で一九六五(昭和四十)年から十年間にわたり生物生産力・自然保護・人間の適応性について研究する事業計画のことである。トム君は来日前から沼田先生のお名前を知っており、先生の著書や論文を読んだことがあるので、懇親会では沼田先生と大いに話が弾んだようだった。

 

トム君の来日の最大の目的は、日本におけるクズの分布北限を確認することであった。日本の植生学者によると、クズの分布北限は北海道の留萌と十勝支庁の広尾を結ぶ線であるとされてきた。勿論、北海道の内陸部の山岳地帯は冬季は極寒の地であるから、クズは生存できない。クズの分布域は沿岸部に限られる。トム君は北米におけるクズの北限を明らかにしているが、日本での北限も細かく調べ上げている。クズの北限は従来の学説よりもかなり北上するようである。北限近くでは、夏に伸びた茎(当年茎)は冬には株近くまで枯れ上るので、植物体はさほど大きくならない。一方、アメリカにおけるクズの西限は年降雨量によって規定されるが、西限付近では当年茎は北限の場合と同様に根株近くまで枯れ上るので、クズは大型化しないものと思われる。このようなクズの当年茎の枯れ上り現象はタンザニアのダルエスサラム郊外の年降雨量九〇〇ミリメートルの栽培試験地でも観察している。広大な大陸に位置するアメリカやタンザニアと異なり、わが国では降雨量はクズの分布の制限要因とはならない。したがって分布の西限は存在しない。

 

トム君は葛布にも関心があったので「葛の話シリーズ」で紹介した静岡県掛川市にある手織り葛布で有名な川出茂一商店へ案内した。ここでは大きな葛布を貰ってトム君は大喜びだった。学位論文の装幀(そうてい)にこの葛布を使いたいと言っていた。葛粉製造の見学に是非ともトム君を連れて行きたかったのだが、製葛シーズン中は私の方によんどころない事情が生じてトム君と小旅行を楽しむ余裕が見出せなかった。ところが、都合よく奈良県出身の学生がいたので、トム君は大宇陀の方へ案内してもらったようであった。

 

トム君と私の共同研究では、予定通り四十×四十、八十×八十および百二十×百二十センチメートルの三段階の栽植間隔で葛の実生苗を栽培した。夏から冬にかけて一ヶ月間隔で、二十×二十センチメートルの方形枠を苗を植えた位置と、植えていない位置(四箇所の苗を植えた位置の中央部)の両方に置き、枠内の植物体地上部と地下部を採取した。地上部は葉面積、葉重、葉柄重、茎長、茎重等を測定し、地下部は根長、根重、根基部の直径等を測定している。そして、成長解析に供するためこれらのデータを整理した。トム君の滞在中には生長解析の計算までには至らず、帰国の時期を迎えてしまった。クズの実験圃場での植物体の採取は、夏場は日に焼かれ、汗が吹き出て目に入り、なかなか骨の折れる仕事である。しかし、涼しい季節に入ると、野外の作業も時には楽しいひとときであって、気分転換にもなる。実験圃場の植物体採取場所にコンクリートブロックを並べ、向い合って腰を掛け、時には冗談を言い合いながら、掘り起こした土塊からクズの根や根粒を選り分けている。会話が途絶えた時に、ふと私は何がご縁でここで異邦人のトム君と一緒になってクズの根など掘っているのだろうかと考えては、不思議な気分に陥っていた。

 

トム君は一九八七(昭和六二)年二月二十七日朝、新幹線で神戸を発った。学生たちとともに新神戸駅まで彼を見送った。トム君は東京のフルブライト事務所へ離日の挨拶に立ち寄り、三月一日には帰国している。

 

トム君と私との本格的な共同研究が始まったのはその後のことである。英語論文を書くためにはトム君がいてくれると非常に心強い。英語論文を二十篇、邦文の論文と記事を十篇以上、共著あるいは分担執筆の本を各一冊、次々と執筆していった。この間に、トム君はノース・イースト・ルイジアナ大学(現ルイジアナ大学モンロー校)で助手のポストを得ている。

 

帰国後十数年が経過した頃、トム君から准教授に昇格したとの吉報が寄せられた。それには、昇格はあなたのおかげであるとの感謝の言葉が添えられていた。私の密かな目標が達成されたのだ。これで、「トム君の日本留学」はやっと終った。私は人知れず安堵の吐息をついていた。この間、私自身にも良いことがあった。一九九一(平成三)年には「被覆作物クズの群落構造と茎葉生産特性に関する研究」で平成三年度日本草地学会賞を頂いた。また、一九九六(平成八)年には「緑化植物クズの土壌保全機能の解明と実際への適用」で平成八年度兵庫県科学賞を受賞している。

 

ところで、私は一九九五(平成七)年頃まではトム君とはかなり頻繁に連絡を取り合っていたが、阪神・淡路大震災後、さまざまな事情からクズから棚田へと研究対象を変更したこともあり、トム君との手紙の遣り取りは途絶えてしまった。神戸大学農学部にはトム君に英文をチェックしてもらっている若い先生がおられるので、今ではその方からトム君の噂話が時々入ってくるという次第である。現在、トム君はルイジアナ大学モンロー校教授で、植物標本館館長を務めている。

 

神戸大学名誉教授 津川兵衛