葛の話シリーズ 第五十二話

 

季節の葛菓子

 

 

葛菓子とは、葛粉を原料として使った和菓子のことである。古来、葛粉は「甘淡(少し甘味があり)、毒なし、熱を除き、渇(かわき)を止め、大小便を通し、酒毒を解(ほぐ)し、胃を養う」とか、「できものや腫れ物に食すべし」とあり、また「わらべのひきつけ、てんかん、嘔吐をとむるものなり」とも言われてきた。以上の事からすると、昔から日本人は葛粉に滋養・薬用としての効果を期待しながら食べていたものと思われる。だから、菓子の分野でも葛粉が積極的に素材として使われるようになったのであろう。

 

室町時代(一三三八~一五七三)に、大陸から禅宗文化が伝来した時、喫茶(お茶をたしなむ)の習慣と点心(茶菓子)が持ち込まれた。点心と言うのは「小食を空心(すきばら)の間に点ず」という意味を持ち、もとは間食のことで、後にこの語が茶請けの菓子の意味に使われるようになった。だから、和菓子の起源はこの点心にあると言える。そして、茶道が盛んになるに伴い、和菓子の品数が増え、味も吟味されて、製法の発展をみたであろう。

 

安土・桃山から江戸時代へと世の中が平和になるにつれて、茶道は隆盛を極め、菓子屋、菓子職人が増加していった。西欧からの洋菓子の渡来に刺激されて、和菓子作りの技術は大いに進歩した。和菓子の種類としては、餅菓子、蒸菓子、流し物が出現し、さらにそれらの組合わせたものが出来た。新しい菓子用素材も開発されて、菓子の形、色、風味に工夫が凝らされた。包装材としてササ、マコモ、サクラ、カシワ、サルトリイバラなどの葉、あるいは竹の皮を用いることにより菓子の保存性を高めることが出来た。これらの包装材は、菓子の姿を整え、芳香を添え、季節感を際立たせるうえでも効果的であった。

 

町人文化が勃興して、民間では宮廷、貴族、将軍家の行事を真似て、風雅を楽しむ風潮が広がっていった。そして、菓子類も庶民の口に入るようになり、次第に菓子の大衆化が進んだ。葛菓子も他の和菓子類と同様な経路をたどって発展してきたことは疑いない。さまざまな創意・工夫の跡を見ることが出来る。ひとくちに葛菓子といっても色々あり、打物(木型にはめて打ち出す菓子)、餅菓子、蒸し菓子、羊羹類の流し物および生菓子に分類できる。葛種(くずだね)(葛粉を水で溶かし、火にかけて練ったもの)の透明感、粘着性、凝固性がそれぞれの菓子の特色として生かされ、デザートとして四季折々の食卓に彩りを添える。

 

一.〔打物〕

(一)葛落雁(らくがん)

葛粉を蜜で練り、型に押し込んで乾かしたもの。天極堂の「古代想」は正倉院の宝物を模したもので、落雁の部類に入る。

 

(二)葛水

葛落雁を冷たい水で溶いた飲み物が葛水である。ジュースもコーラもなかった時代、暑い盛りには葛水が何よりも喜ばれた。
葛水の座に脱捨てる羽織かな 塩原井月
夏の真盛り、何かの寄り合いがあって、葛水が出席者に振る舞われた。遅れてやって来た者が、汗だくで羽織を脱ぎ捨てるなり、「葛水、葛水」と催促することもあったようだ。この葛水に葛落雁を添えて客に出すこともあった。

 

(三)葛湯

冬季、外出から帰った時、昔ながらの生姜(しょうが)味のきいた葛湯で温まるのもよいものだ。元来、葛湯は落雁状のものを湯で溶いて飲んでいた。島根県大田市温泉津町西田は石見西田葛の産地であり、町おこしのため作った葛湯は落雁状であった。次は子供の頃を思い出す懐かしい一句である。

 

わが息のかかりて冷めし葛湯かな 萩原麦草

 

普通、家庭では小鍋に葛粉と砂糖を入れ、水で溶かし、火にかけてよく練って葛湯を作る。好みに応じて抹茶、生姜を入れたりする。風邪をひいたり、お腹をこわした時、あるいは夏ばてで、何も喉を通らなくなってしまった時でも、少し甘味を付けた葛湯なら食べられる。万延元(一八六〇)年、正使木村芥舟、副使小栗忠順、艦長勝海舟らの遣米使節の一行は、病人用に葛粉二斗(三十六リットル)と砂糖七樽を咸臨丸に積み込んでいた。勝海舟は船に弱かったと聞いているが、葛湯のお世話になったこともあっただろう。木村芥舟の家来福沢諭吉は船酔いしない体質だったから、ひょっとしたら諭吉は海舟を冷やかしたのかも知れない。この二人は終生仲が良くなかったと言われている。

 

昭和天皇は葛湯を大層好まれた。御崩御の直前、水も喉を通らなくなった時、葛湯をお飲みになって「美味しい」と仰しゃったことが新聞記事になった。朝日新聞の連載漫画「ふじ三太郎」には、皇居に向って葛湯を入れた湯呑みを捧げ持つふじ三太郎の姿が載った。

 

二.〔餅菓子〕

(一)葛餅

鍋に葛粉を入れ、水を加えながら滑らかに溶かし、砂糖を入れてよく混ぜ合わせる。弱火にかけて杓子(しゃくし)で底を焦がさないように混ぜ、透き通った糊が出来るまで煮る。水で濡らした流し缶に、葛種を鍋から掻き出して入れる。濡れた布巾で押さえて表面を平らに均(なら)す。冷えて固まったら型から出し、好みの大きさに切る。黒砂糖と白砂糖で作った蜜をかけ、きな粉を振り掛けて食べる。

 

食文化研究家の小菅桂子さんは自著の「水戸黄門の食卓―元禄の食事情」(中公新書)の中で、水戸光圀公(一六二八~一七〇〇)は頻繁に葛餅を食したと言う記録があると述べている。

 

俳人水原秋桜子は、小学生の頃遠足で亀戸や柴又へ出掛け、そこで葛餅と馴染になったそうである。

 

葛餅や老いたる母の機嫌よく 小杉余子

 

葛餅は東京近郊では、昔から亀戸天満宮、柴又帝釈天、川崎大師、池上本門寺、藤の牛島で売っていた。江戸の葛餅というのは、拙著葛の話シリーズ第四十四話で紹介したように、原料は発酵小麦粉で、関東特有のものである。東京で有名な葛餅の老舗「船橋屋」が文化二(一八〇五)年に考案し、大当りを取っている。関西で葛粉から作った葛餅が売り出されるようになったのは後のことである。

 

(二)葛練

葛粉を水で溶いて、氷蜜(氷砂糖の粉末に卵の白身を加えて煮つめたもの)を加え、火にかけてよく練り上げる。これを杓子で濡布巾の上に掻き出し、水で濡らした手で平らに整える。

 

天保元(一八三〇)年六月三日、頼三陽は京都から郷里広島の母梅颸(ばいし)に、病気見舞いの手紙に葛粉を添えて送っている。「生姜汁を沢山入れ、甘味をつけて、葛餅ぐらいの固さにして、挟み切って、丸めて熱いうちに召し上れ」と説明している。これは葛練りの一種である。

 

(三)葛切り

葛粉を水に溶かし、裏漉しして、流し缶に7ミリメートルの厚さに流し込む。熱湯に浮かべ、透明になったら水で冷やし、葛を缶から剥がし、一センチメートルほどの幅に切る。冷えた鉢に盛って、黒蜜(黒砂糖と水を煮詰めたシロップ)を添えて出す。この四角の流し缶が水繊鍋で、湯煎して作る葛菓子専用のものである。葛は直接火にかけると焦げ付き易いので湯煎とする。葛切りでは、京都四条川原町の「鍵善」がつとに有名である。水上勉がこの店の宣伝用の栞に賛美の言葉を寄せている。宿酔の朝には葛切りが最高だと言う。これに対して、奈良市押上の天極堂奈良本店が勧める葛切りは、最近評判を取っている。両者を食べ比べするのも面白かろう。遮るもののない透明感、つるりとして冷たい舌触り、たとえようのない喉越しの滑らかさ、これら三つの特性を備える葛切りは季節の風物として秀逸である。

 

葛切りの井のすずしさを掬うごとし 大野林火

 

(四)水繊

これは昔風の葛菓子で、葛切りと同様に湯煎して作る。まず、大鍋で湯を沸かしておく。一方、四角い水繊鍋に水で溶いた葛を金杓子で掬い入れる。水繊鍋の底を大鍋の熱湯に漬け、葛の大部分が白くなりだしたら、水繊鍋全体を湯に漬ける。葛が透明になったら鍋を湯から揚げ、冷水に漬ける。玉子返しで葛を掻き出し水の中に入れる。手で巻き鮨用の簀の上に取り出し輪の形に整え、挽茶(抹茶)と砂糖をかけて勧める。この菓子は水煎、水仙とも書く。花の水仙の文字を当てるのは、クチナシで黄色に染めたものと、色をつけないものの二色を一緒に盛ったからだと言われる。水戸光圀公は、殊の外水繊を好まれたそうである。

 

鎌倉時代(一一八五~一三三三)の食事の作法は、まず「水繊を肴に酒三献」から始まった。この場合、水繊は前菜(オードブル)の部類に入る。したがって、垂れ味噌(味噌に水を加え、煮詰めて搾った汁)か、煎り酒(だし酒、酒に鰹節と塩を少々入れて煮出す)をつけて食べる。しかし食後のデザートとして出す時は砂糖蜜をかけた。光圀公は大変な酒豪であったから、水繊を酒の肴にされたこともあったと思われる。また大の甘党でもあったからデザートとして水繊に蜜をかけて召し上ったこともあっただろう。

 

(五)葛餡玉

葛粉と水をボールに入れ、完全に溶かした後に、砂糖と塩を加え、さらに細かく千切った小豆の漉し餡を入れて完全に溶かす。やや目の粗い篩で濾して、鍋に移す。中火にかけて木の杓子でよくかき混ぜ、焦げ付かないように煮る。透明になり、弾力のある状態になったら火からおろす。氷水を張ったボールに梅干し大に切って落とし、十分に冷えたら皿に盛り、きな粉をかけて出す。

 

三、〔蒸し菓子〕

(一)葛桜

小豆の漉し餡が透き通った葛の衣を着けて、鮮やかな緑の桜の葉にくるまって、ガラスの器にのっている。いかにも涼しげな初夏のお菓子である。

 

葛ざくら濡葉に氷残りけり 渡辺水巴

 

葛粉を水に溶いて火にかけて焦げないように練り、約三分の一が糊状になったら火からおろす。余熱を利用して練ると、白い固めの葛種が出来る。これを約四十グラム大匙で掬い取り、いったん水に漬けてから手のひらにのせ、この中に餡玉を突き込むようにして包み、ハマグリ形に整える。蒸し器で湯気が上ってから5分間蒸す。簀の上で完全に冷ましてから桜の葉で包む。桜の葉は駿河湾に面する静岡県賀茂郡松崎町産のオオシマザクラ(八重桜)のものが著名である。葛桜は元来関東の葛菓子である。

 

(二)葛饅頭

葛桜と同様にして葛種を作る。葛桜では、葛種にハマグリ形をした餡を包んで形を整えるが、葛饅頭では丸い餡を葛種で包み、底を絞るようにして形を整え、丸い小さなへぎの上に一つずつ乗せ蒸し器で蒸す。関東の葛桜に対して関西ではこの葛饅頭が好まれてきた。作ってから時間がたつと葛饅頭の外側の葛が白濁して不透明になるが、蒸すと再び透明になる。

 

(三)葛粽

古代中国では端午(五月五日)に粽を作る風習があり、これがわが国に伝来した。材料には糯米あるいは粳米の糝粉(しんこ)(白米を日光に干し、臼でひいて粉にしたもので、和菓子類の原料)を使うのが一般的であるが、生麩、葛粉を使うこともある。材料によって生麩粽、葛粽、外郎(ういろう)粽、羊羹粽に分けられる。また、包装材によって笹粽、真菰粽、菖蒲粽と呼ぶことがある。さらに、形によって角粽、団子粽、筒粽、三角粽と呼んだりもする。

 

猫の子のほどく手つきや笹粽 一茶

 

京都上賀茂の粽で名高い川端道喜は、四五〇年も続く菓子老舗である。この店の肩書きは御粽司と言い、御所御用達、すなわち御所へ出入りの粽屋さんと言うことである。第十五代川端道喜さんは岩波新書「和菓子の京都」を出しているが、明治以降はこの店は葛粽一本に絞ったそうだ。葛粽は材料費は高くなるが、喉越しがよく、お腹にもたれないので茶席に最適であると言う。川端道喜では羊羹粽を売っている。これは葛に小豆餡を練り込んだ粽である。羊羹と言うと普通は寒天で固めた羊羹を想像しがちだが、寒天を使うようになったのは、江戸時代も中期に入ってからである。安土桃山時代の羊羹は葛を炊いて固めていた。

 

(四)水無月

旧暦六月一日には宮中では臣下に氷室の氷を賜ったが、民間では氷の代りにこの水無月を食べて祝った。葛の入った三角形の外郎餅で、上に甘く味付けした小豆を散らしたものである。暑気払いをして、無病息災を祈る縁起物として作った。

 

落ちこぼれはいもいはうや氷もち 西奴

 

三角形の外郎餅は氷のかけらを模し、上に散らした小豆は氷片に付いた泥土を表わす。水無月は氷もち、氷室とも言う。

 

(五)水菓子花餅

葛粉と小麦粉を混ぜ合わせ、赤色には紅を入れ、緑色は挽茶(抹茶)、黄色にはクチナシの汁を入れる。水で固めに練り、花形を作り、蒸籠(せいろう)に入れて蒸す。冷し物用の深鉢に氷を浮かべて食卓に出す。各自杓子で小鉢に掬い、白砂糖をかけ食べる。

 

(六)吉野饅頭

葛粉と粳米(うるちまい)の粉を混ぜたもので皮を作り、餡を包んで蒸す。黒ゴマを炒(い)って粉にしたものと砂糖を合わせ、蒸した饅頭にかけて出す。

 

四、〔流し物〕

(一)黒砂糖の葛流し

葛粉と黒砂糖に水を加え、混ぜて滑らかにした後、濾して鍋に入れ、火にかけてよく練る。その後流し缶に入れ、冷やし固める。適当な大きさに切り、器にハラン(ユリ科の常緑多年草、楕円形の大きな葉をもつ)の葉を敷いて盛る。和三盆糖を用いて琥珀色に仕上げたものは琥珀羹と呼ぶ。

 

(二)色葛餅

葛粉と寒天を溶かして練り合わせ、流し缶へ一.八センチメートルの厚さに流し込み固める。白(牛乳)、赤(ベニバナ)、黄(クチナシ)、緑(挽茶)に着色する。三角、四角に切り、錫の鉢に盛って出す。小皿に取って砂糖をつけて食べる。

 

五.〔生菓子〕

(一)葛焼

葛粉を水に溶かし、砂糖、塩を入れ、漉し餡を加えて、焦げないように練りながら煮る。透明になり、弾力のある種が出来たら、丸めておく。そこえ餡を上から押えつけるようにして包む。サラダ油を引いた鉄板の上で弱火で両面を焼く。

 

(二)葛焼餅

葛粉と砂糖を混ぜ、水を加えて火にかけて練り、スダチ(ミカン科ユズ類、ユズより小型)の大きさに丸める。鍋に油を引いて何回も返しながら焼く。

 

以上に作り方を説明した葛菓子を、およそ食べる時期によそって分けてみた。

 

五月葛桜、葛粽

六月葛餅、水無月

七月葛水、葛落雁、水繊、葛練、葛餡玉、葛切り、葛饅頭、水菓子花餅、黒砂糖の葛流し、色葛餅、葛焼、葛焼餅

十月吉野饅頭

十二月葛湯

 

日常の多忙な生活の中で、くつろぎのひとときに、口にした茶菓子が季節の移ろいを気付かせてくれた。このように、密やかに季節感を漂わせているのが和菓子の特徴である。透明な葛種の持ついかにも涼しげな感じから、一般に葛菓子は夏向きのお菓子として多用される。

 

葛菓子で季節感を楽しむのも一興であろう。

 

神戸大学名誉教授 津川兵衛