葛の話シリーズ第六話

 

葛と健康(六)

 

海を渡ったクズ

 

 

クズが初めて海外に紹介されたのは、一八七六(明治九)年、建国百周年の祝典として開催されたフィラデルフィア万国博である。衆目を集めたのは、何と言っても主催国アメリカが出品したタイプライターとミシンで、これらは躍進するこの国の工業力を世界に認識させるのに余りあるものであった。わが国では、前(明治八)年から展示物の収集・整理に備えて、大久保利通を総裁、西郷従道を副総裁とする事務局が設置されていた。この万博に臨んで、出展方針は、前回のウィーン博でも日本製品の展示に尽力したドイツ人教師のワグネルが指導した。未熟な工業製品を避け、日本独特の工芸品を出品することに集中したこの計画は成功を収めたと言えよう。出品物の一つに加えられたクズは、日本の自然と伝統文化の一端を異国の人々に伝えてくれるものと信じて、誇りと親しみを込めて送り出されたのであろう。その後百年余りの間に、クズがアメリカ南部史の何頁かを飾るのに相応しいほどの奇異な運命に弄ばれたことを知る人は今では少ない。

 

一九九二(平成四)年クズはピナトゥボ火山爆発によって発生した泥流の流出を防ぐためにフィリピンの地に渡った。わが国でのクズの種子採取には小学生から老人会の方々まで、様々な階層の人々が参加している。現地では、少数民族アエタの人たちがクズの育苗から定植後の管理一切を引き受けている。試みに植えられた〇.五ヘクタールのクズ畑は、乾季の真っ最中、植物の活動がことごとく途絶え、大地が褐色に変ずる時でさえ、そこだけが緑の絨毯を敷きつめたように見えた。そんなクズの能力が買われて、家畜の飼料生産のために植栽地を毎年十ヘクタールずつ拡大する事業が一九九八年から開始された。

 

クズはかの島国で新天地を切り開いてゆくようである。

 

神戸大学名誉教授 津川兵衛