秋月葛誕生秘話

 

葉室麟著「秋月記」に想いを重ねて

 

 

筑前秋月藩は、元和九(一六二三)年、初代福岡藩主黒田長政(五十二万石)の遺言により、三男長興(ながおき)が五万石の知行を分け与えられてできた支藩である。秋月藩は幕府から朱印状を交付された独立した藩であったが、藩内に政変が起きると、福岡藩は秋月藩御用請持(目付役)を派遣して藩政に介入した。この物語の主人公は、秋月藩馬廻役二百石吉田太郎太夫の次男小四郎(元服名俊勝)である。彼は十歳から藩校の稽古館で、剣術と学問に励むようになった。稽古館へは小四郎より三歳年長で馬廻役百石の家柄の伊藤惣一(惣兵衛)。小四郎と同年で馬廻役、家格百八十石の手塚六蔵(安太夫)が通っていた。伊藤、手塚の二人は家督を継いだ。次男の小四郎には馬廻役二百五十石の間(あいだ)篤から養子縁組の話が持ち込まれた。さらに間家の遠縁に当たる書院番八十石の井上武左衛門の娘で、器量、気立てとも評判のもよと夫婦にさせるとの約束までついていた。彼ら三人は何事をも腹蔵なく話せる幼馴染であった。

 

秋月藩は文武に優れ、前途有望な青年に江戸遊学の機会を与えていた。今回は、小四郎の他に坂田第蔵、坂本汀、手塚龍助が選ばれた。この三人は小四郎とは稽古館の仲間だったが、いづれも家禄の低い家柄である。第蔵は小四郎より二歳年長で槍術、薙刀の免状を持っていた。両親はなくなり、坂田家の当主ですでに妻帯していた。他の二人はともに小四郎より一歳下で、世継長韶(ながつぐ)の小姓だった。

 

小四郎らが秋月藩江戸上屋敷に着いたのは文化元(一八〇四)年五月のことだった。小四郎はすぐに神道無念流道場に入門した。入門当日、道場で小四郎は海賀(かいが)藤蔵と名乗る場心流柔術の達人から手合せを申し込まれた。木刀を取った小四郎は素手の藤蔵に完敗した。これを契機に小四郎は藤蔵と親交を深めていった。藩邸での四人共通の話題は何と言っても藩内情勢だった。第蔵は藩政に鋭敏で、首席家老宮崎織部については「君側の奸」だと厳しく批判していた。宮崎織部は四十過ぎで、二千二百石の身分、広大な屋敷に住む尊大な男である。江戸家老吉田久右衛門は温厚な人柄、病弱だった。もう一人の家老渡辺帯刀は上の者に対しては追従口である。織部は第八代目藩主長舒(ながのぶ)の絶大な信頼を得て権力を振った。長舒は七代目長堅が亡くなった時には後継ぎがいなかったため、日向高鍋藩主秋月家から養子として入った人である。長舒が藩主となって十九年。彼は秋月藩中興の祖とされる名君だったが、最近政治に飽きてきたと噂されていた。そこえ織部がつけ込み、藩政を牛耳りつつあるのだと家中で囁かれていた。

 

小四郎は、江戸遊学二年目の文化二(一八〇五)年の夏、国元秋月への急便として帰国を命じられた。豊前の洞海湾に面した黒崎(北九州市)で下船した。長崎街道を飯塚まで南下し、秋月街道に入ると往還の人馬の行き来は激減した。長旅だったが、この新八丁峠を上りきると秋月藩領だ。父太郎太夫の話だと、秋月が福岡藩領であったころ、八丁越(旧)とは肥後(熊本県)・肥前(佐賀・長崎県)・筑後(福岡県南部)から豊前(福岡県東部・大分県北部)へ行く場合、秋月を経て古処山(筑紫山地の西端、標高八六二メートル)を超える峠道のことである。筑前国第一の険路が八丁(約八七〇メートル)続いたのでこの名が付いたと言われる。初代秋月藩主長興は寛永七(一六三〇)年に新八丁越の建設を命じ、数年かけて完成させた。小四郎はこの新道を通ったのだ。旧道ほどではないが、新道も相当に険阻な山路である。

 

暑い盛りに、鎌首をもたげるような恰好をしてクズの蔓が道端へ伸び出して来ている。あたり一帯、灌木の枝に巻き登ったクズの蔓はたくさんの花房を着け、心地良さそうに白い葉裏をそよ風に翻らせていた。めいめいの花房は競うかのように芳香を匂い立たせ、小四郎のところへ送り届けてくるかのようであった。峠で胸元に風を送りながら、久しぶりに故郷の山々や町並みを望んだ。

 

秋月は盆地である。北東側は古処山・屏山(標高九二七メートル)・馬見山(九七八メートル)からなる筑紫山地が衝立のように遮り、その両側は標高四〇〇~六〇〇メートルの山並が囲む。南側には「秋月のふた」と呼ばれる小高い観音山があるだけで、その背後には筑紫平野が開けていた。秋月は盆地の町で東西に細長く、有明海に注ぐ筑後川の支流小石原川のまた支流の野鳥川が、盆地の中央を流れている。東西に伸びる川沿いの道と南北に交差する道が町並みを分けていた。二本の道沿いに武家屋敷、足軽屋敷、町屋を配した景観は筑前の小京都と呼ぶにふさわしいたたずまいを見せていた。

 

秋月につくと、小四郎は江戸からの書状を届けるために、館(館城、館で城を兼ねたもの)に赴いた。書状は、宮崎織部から建議されていた石橋建設について、藩主長舒(ながのぶ)が裁可したことを告げるものだった。財政窮之のおりに、莫大な費用のかかる石橋建設には根強い販売があった。藩主長舒の襲封による出費も大きかった。大阪商人や本藩への借財も重なり、領内の富裕な町人、庄屋からは御用銀を納めさせていた。

 

小四郎が遊学仲間の坂田第蔵から託された内儀宛の手紙を届けに行った頃から彼の身辺に不穏な空気がまとわりつき始めた。第蔵の妻とせに不義密通の噂が立っており、相手は本藩から招聘された算学にたけた若侍姫野三弥だと言う。

 

小四郎は帰国後しばらくして、剣の師藤田伝助に帰国挨拶のため稽古館を訪れた。そこで小四郎は稽古仲間の末松左内が卑劣な手を使う姫野三弥に敗れるのを見て、姫野と立ち合わざるをえぬ羽目になった。姫野は宮本武蔵の開いた二天流の使い手だ。この時は、姫野は二刀を用いなかったので、勝敗なしで終った。

 

帰国翌年三月、小四郎は間(あいだ)家の養子になると同時にもよを娶った。しばらくして新婦のお披露目と称して、間家に幼友だち、江戸遊学仲間、それに藩剣術道場で藤田伝助から教えを受けた相弟子たちが集まった。席上、師は一人娘千紗(ちさ)を亡くしたため、職を辞して秋月を去ったことが話題となった。千紗の死は自害であり、遺書もあったそうだ。それには姫野三弥が絡んでいると坂田第蔵が言い出したので、一同は愕然とした。

 

十日ほどして小四郎は家若宮崎織部から館へ呼び出された。小四郎は、天然痘患者からかさぶたを採取するために、福岡藩の医師香江(こうえ)良介に従って福岡藩早良(さわら)郡へ行くように命じられた。本藩との折衝は黒崎の御蔵奉行所にいる坂田第蔵がやってくれるそうだった。

 

秋月から福岡までは約十里、途中大宰府に一泊して福岡入りをする。福岡で第蔵と落ち合って三人は早良郡へ向った。村の庄屋宅には以外にも剣の師藤田伝助が待っていた。種痘材料を得て、翌朝四人は早立ちをして、秋月へ向った。途中雨の降る山道で賊の待ち伏せに会い香江良介は肩先を切られ、背負った包を奪われた。しかし、良介が腹巻に隠していたかsぶたは無事だった。だが賊を追った伝助は無残にも竹林の中で凶弾の餌食となった。師の伝助を失った小四郎が気分の晴れない日々を送っているところへ惣兵衛と安太夫が訪れた。小四郎らを襲ったのは黒田家に仕える伏影(ふせかげ)と呼ぶ隠密ではないかと言った。

 

文化三(一八〇六)年六月、長旅を重ねてきたらしい様子の海賀藤蔵が小四郎を尋ねて来た。藩の重役たちの前で藤蔵は藩内の猛者十数人をたちまち投げ飛ばした。その場で宮崎家老は藤蔵を師範として召し抱えることに決めた。

 

藤蔵は稽古のない日は領内を見物して回った。そのうち長崎の石工が石の切り出しを始めていた古処山の麓の石切り場へ行くようになった。そこで藤蔵は吉次という若い石工と親しくなった。ある日藤蔵は小四郎を誘って石切り場へ行くと、入口付近で渡辺家老の中間で、髭面の大男能平と出会った。この男は、吉次たちに大阪でひと一人を殺したと、脅かし半分に喋ったことがあった。

 

石切り場からの帰途、小四郎は久しぶりに実父吉田太郎太夫宅に立ち寄った。石橋を造るために給与の扶持が削られるのを心配する声があるようだった。また、家老渡辺帯刀は借金返済のため大阪に出向くうちに、芸妓と馴染みになって身受けをし、秋月の自らの知行所に囲っているらしいと語った。

 

その女は七與(ななよ)といい、年季明けには左官職人と夫婦になる約束だった。帯刀は中間の熊平に左官を殺させたらしい。太郎太夫の耳にまで帯刀の悪い噂が聞こえてくることからして、帯刀が属する派閥の長である宮崎家若の藩政に不満を募らせる声はよほど大きくなっていると思われた。

 

数日後、小四郎は親戚の法事の帰りに、渡辺家老が大阪の女を隠しているらしい下屋敷の前を通り書かった。ちょうどその時酔っぱらった熊平が渡辺家老の家士によって追い出される場面に出くわした。そこへ渡辺家老が姫野三弥ら供を連れて騎馬で現われ、熊平を屋敷へ連れ込んだ。それから十日ばかりして、小四郎は妻のもよから渡辺家老のところの中間熊平が筑後川で入水したことを知らされた。熊平を始末したのは姫野三弥だと、もっぱらの噂だった。

 

文化四(一八〇七)年春、小四郎は藤蔵とともに、もよを連れて完成した石橋見物に出かけた。夕まずめの一刻、村の子供たちが橋の上を走り回っている。小四郎が注意すると子供たちは逃げ散った。稽古館教授の原古処の娘猷(みち)と名乗った十歳ぐらいの子供だけが橋の上に残った。危険を感じた小四郎は、猷を抱き上げ、そのまま対岸へ渡った。次の瞬間、轟音とともに石橋が粉塵を巻上げて崩れ落ちた。しばらくして、家老宮崎織部が、三弥をはじめ武士の一団を引連れて現われ、石工たちを引き立てていった。泣きながら吉次にすがりつくいとの姿が憐れを誘った。

 

石橋の崩落後間もなく、藩主長舒(ながのぶ)が病没し、嫡男の長韶(ながつぐ)が十九蔵で後を継いだ。橋崩落の責任は新藩主襲封に忙殺されて掻き消された。石工たちには襲封による特赦が下って文化五(一八〇八)年二月に長崎へ帰っていった。宮崎織部は石工放免の代りに吉次の恋人いとを妾にしたともっぱらの噂だった。

 

第蔵は黒崎奉行を務める間に秋月藩の借財を調べていた。江戸、大阪その他の商人・貸金業者から五千貫の借銀があった。これには宮崎、渡辺の両家老が大阪で豪遊したり、渡辺が囲っている芸妓の身請け費用も入っているそうだ。これを知った小四郎の盟友たちの間には宮崎家老を糾弾する声が急速に高まった。しかし、小納戸役を務める手塚龍助が藩主長韶(ながつぐ)に訴える機会を待とうと言って引き止めた。

 

文化六(一八〇九)年秋には、吉次ら長崎の石工たちが再び秋月にやって来た。今度こそ立派な橋を完成させて、宮崎家老の手からいとを連れ戻すのだと吉次は堅く心に決めていた。石橋が完成したのは翌(文化七)年十月だった。藩主長韶(ながつぐ)による渡り初めが行われる日、小四郎は長韶への訴状を懐にして対岸で待っていた。まさに式典が始まろうとした時、群衆の中から石工の吉次が宮崎家老の前に走り出て、いとを返せと悲痛な声で直訴した。不穏な動きをする吉次を姫野三弥はその場で斬り捨てた。これで渡り初めは中止となった。

 

吉次の死後、いとは実家へ戻された。村ではいとは宮崎家老の妾になっていたと冷たい目が向けられていた。いとは人目を避けるように、山あいでひっそりと野良仕事をするようになっていた。

 

文化八(一八一一)年十月のある夜、小四郎の屋敷に七名の同志が集っていると、突然姫野三弥の来訪があった。何事かと皆が不信の念を抱きながら迎え入れると、坂田第蔵の妻の出奔と藤田伝助の娘千紗の自害の件では、自分は濡れ衣を着せられたのだと釈明した。そして、吉次を不憫に思い、宮崎家老の失政を非難した。さらに、今夜参上したのは罪滅ぼしに皆様の役に立ちたいからだと述べた。藩主長韶よりも、思い切って本藩に訴えてはどうかと言った。これは小四郎らの考えの埒外(らちがい)の策である。

 

それから七日後、小四郎は館へ呼び出され、家老渡辺帯刀からみだりに談合を行っているとの理由で閉門が申し渡された。館からの帰途、小四郎は今回の処分における姫野三弥の関与の有無を確かめるため三弥の長屋に立ち寄った。三弥を糾門し、渡辺家老の話し振りとを照合してみて、三弥が訴え出たのではないと感じた。三弥はこれで福岡出訴は頓挫したとみて、残念がった。しかし、むしろ小四郎は本藩出訴の決意が固まったと三弥に告げた。三弥は、父姫野弾正には福岡藩中老職村上大膳から強力な引き立てがあることをうちあけた。大膳は深山の身でありながら、中老まで昇った出世人であると説明するや、直ちに大膳への添え状をしたためた。その夜、小四郎は黒崎の坂田第蔵に手紙で事の次第を知らせた。

 

十月二十九日夕刻、小四郎、安太夫、左内の三人は福岡へ旅立ち、藤蔵が藩領を出るまで同道した。藩主長韶(ながくつ)が福岡へ行くことになったので、これを機会に本藩に訴え出て、本藩の仲介で長韶に訴状を差し出す計画なのだ。筑前、筑後の国境の野町宿に差し掛った時、五騎の追手が蹄の音を響かせて追って来た。すると、突如、藤蔵が現われ、瞬く間に五人を始末した。小四郎ら三人はその間に森の切れるあたりまで逃れたが、そこには宮崎織部の側近が待ち伏せていた。その時、森の外から二刀を抜いた三弥が走り来て、たちまち五人を屠(ほふ)った。最後の一人には伏影の剣法を使った。そして、三弥は刀を納めると、小四郎に黙礼しただけで森の中に消えた。

 

十一月一日夜、小四郎ら三人は福岡藩中老村上大膳に秋月藩家老宮崎織部、同渡辺帯刀の悪行を書状をもって訴え出た。署名は七人だけで、海賀藤蔵の名はなかった。藤蔵にしたら、自分を柔術師範に推挙してくれた宮崎家老を指揮することは出来なかった。また、藩の事情を熟知せぬ新参者が口を挟む事ではないと考えていた。大膳は直ちに家老浦上四郎太夫とともに藩主斉清(なりきよ)に小四郎たちの訴えを言上し、対応策を協議した。福岡城に滞在している長韶(ながくつ)は、宮崎織部に専横の行状があったことを認め、訴え出た七人とともに宮崎、渡辺両家老に逼塞(ひっそく)を命じた。長韶は二日には秋月に戻り、福岡藩からは村上大膳が乗り込んできた。十一日には新たな家老に吉田縫伝助と吉田主礼が任じられた。宮崎織部らに対する取り調べは大膳が行い、一ヶ月後に処罰が下った。十二月九日、宮崎織部と渡辺帯刀には、家老罷免と知行召し上げ、宮崎派と見られた総勢十七人も知行没収、降格などの厳罰に処せられた。秋月ではこの政変を「織部崩れ」と呼んだ。

 

文化九(一八一二)年三月には、小四郎ら七名は各二十石の加増、御役昇進の通達を受けた。しかし、海賀藤蔵は訴状に名が無かったことと、取調べの目付への態度不遜で恩賞から漏れた。しばらくして、福岡藩からは秋月御用請負持(うけおいもち)として沢木七郎太夫が派遣されて来た。六月に七郎太夫は稽古館の閉鎖と原古処の教授罷免を命じた。学館目付になっていた小四郎は自らの意に反することを執行しなければならなかった。

 

年も暮れ、身を切るような冷たい風が吹き渡るようになっていた。ある夕刻、小四郎は後に眼鏡橋と呼ばれるようになる石橋のたもとへ行った。橋の反対側に籠を背負い、頬かぶりした百姓姿の女が立っていた。姫野三弥に切られた石工吉次と夫婦約束を交わしていたいとだった。いとは宮崎家老のところで女中奉公をしている間に、宮崎織部はお家のために一生懸命働いていることを知った。悪いのは渡辺帯刀と姫野三弥であることを小四郎に告げた。十日後、小四郎は藩校廃止後の播士教育について福岡藩校教授方の指導を仰ぐことを名目にして、福岡出張を沢木七郎太夫に願い出た。警護のために海賀藤蔵の同行許可おも取りつけた。福岡藩学問所の朱子学教授と面談して、福岡来訪の表向きの目的は果たした。その日の夜ふけ、小四郎は密かに織部の蟄居先を訪ねた。織部は、小四郎に事の経緯を語り聞かせた。

 

秋月藩の先君長韶(ながつぐ)は名君であった。藩を興すために様々な事業を行った。無理を重ねて借財は増え続けた。家臣の不満が先君へ向うのを避けるために織部の仕業だということにしておいた。しかし、遂には、本藩に助けを求めざるを得なくなった。本藩はかねてより秋月藩の乗っ取りを企てていることもわかっていたが、本藩の狡猾ぶりには計り知れないところがあった。財政事情を知るためと称して財政・会計術に長けた伏影(ふせかげ)の姫野三弥を送り込んできた。三弥は坂田第蔵の妻や伝助の娘をたぶらかして藩内にいさかいの種を播いた。伏影は帯刀の中間熊平、石工の吉次、それから正体を見破られた剣術師範藤田伝助をも殺した。このような本藩のたくらみを家中に暴露しなかったのには訳がある。暴いてみても秋月藩に金がないことには変わりはない。だから、本藩が秋月を乗っ取りたいなら、乗っ取らせる。そのかわり、秋月の借金は本藩に返済してもらう。その上で秋月を再び独立させれば借金は帳消しになる。これを実行するのは訴状に連署した小四郎ら七人だ。つまりこの七人に藩の立て直しを押し付けることにしたのだと言う。なお今回の件は、本藩の意向を隠れ蓑にした大膳の私欲から出ている。子飼いの姫野三弥を送り込んで秋月藩を自分の支配下に置くつもりだ。だから尻尾を掴んだら思い切りやることだと言って話を締めくくった。

 

帰り道は、冬の月があたりを青白く照らしていた。案の定五人組が襲ってきたが藤蔵がいたので小四郎が軽傷を負っただけですんだ。小四郎に手傷を負わせた男は鋭い太刀さばきを見せた。藤蔵が近づいたので「福岡で余計なことは探らぬがよい」と言い残して闇に消えた。臓腑に突き刺さるような声だった。

 

秋月へ戻った三日後、小四郎は訴状に連名した六人と藤蔵を集めて、宮崎織部が語った事柄を話し聞かせた。本藩による秋月藩乗っ取りの手先に使われたと知って、集まってきた仲間たちは唖然とした。「口惜しいが、織部の狙い通り、われらの手で秋月藩を本藩から取り戻すしかない」と小四郎は言ったものの、その方策については何も思い浮かばなかった。しばらく沈黙が続いたとき、藤蔵が目くばせしたので、小四郎は散会を告げた。

 

藤蔵は第蔵の目に殺気がみなぎるのを認めたのだった。妻とせのことがあり、さらに自分たちの藩政改革の念願が本藩により利用されてしまったのだ。第蔵の悔しさは痛いほどわかる。藤蔵と小四郎は月の夜道を三弥の長屋へと急いだ。長屋の横の空地では凄まじい気合と刃を交える音が響いた。三弥は脇差を抜いて二刀になっていた。小四郎が二人の間に割って入り、三弥の背後にはいつの間にか藤蔵が立っていた。三弥は三人相手では勝ち目がないことを悟ったのであろう。刀を引いた。この時、小四郎は三弥の動きの中に、月が陰った瞬間を巧みに利用しようとする伏影剣法の正体を見破っていた。

 

翌日の夕刻、福岡藩医香江良介が、深手を負って原古処の屋敷に担ぎ込まれたと小四郎に知らせがあった。良介は今にも絶え入りそうな息づかいの中で、種痘のかさぶたを福岡藩早良郡へ採取に行った際に、良介が藤田伝助から預った伝助の娘千紗の遺書を小四郎に手渡した。良介はやり遂げねばならなかった仕事を終え、猷(みち)に手を握られて、安らかに息を引き取った。小四郎は藩を取り戻す前にやらねばならないことを考えていた。

 

文化七(一八一三)年三月、福岡から瀬沼霞軒(かけん)が秋月に乗り込んできた。彼は藩士のみならず領民まで朱子学で訓導しようとした。郷村に足を運ぶときは、常に三弥を供に連れていた。この日は近くの村の大庄屋の屋敷で講話をした。帰途、目鏡橋に差しかかる頃には日は落ちていた。小四郎は橋の中央部で三弥と対峙し、稽古館での立ち合いの決着をつけようと静かに告げた。半年待ったのは伏影の剣に勝つ技を編み出すこと、秋月で三弥の評判が悪くなることを待っていたのだと毅然として述べ立てた。藤田伝助の娘千紗の遺書は三弥が秋月に来た目的を明かしていた。また、三弥は村上大膳が屋敷の下女に産ませた子であることも記されていたと小四郎が言った時、三弥はさすがに動揺して、月に照らされた顔は歪んでいた。橋の上では自由に動き回れない。二刀流は守勢に立たされがちだ。月が雲間に入ろうとした刹那、先に切りかかったのは小四郎だった。鋭い金属音が連続して響き、火花が飛び散った。中天にさしかかった月の光は、刀をだらりと下げた三弥を青白く照らしていた。「とせ殿も千紗も騙すつもりはなかった。ただめぐり合わせが悪かったのだ」と呟いて、三弥は崩ち落ちた。

 

小四郎と三弥との決闘は、七人の藩士が武道の上の争いだと証言したので藩の咎めはなかった。瀬沼霞軒は郷村では庄屋に金品やもてなしを強要していたので、叱責される始末だった。

 

文化十二(一八一五)年八月、小四郎は二十九歳で郡奉行行に登用された。秋月藩郡部の行政における疑獄事件が秋月御用請持沢木七郎太夫により摘発されていた。

 

小四郎が郡奉行になって二年目文化十四(一八一七)年五月、秋月藩は幕府から今日の中宮御所造立(ぞうりゅう)、仙洞御所修復が命じられた。両方で出費は八千五百両と見積もられた。藩主長韶の命により、家老吉田久右衛門は事態説明のため福岡へ派遣された。秋月御用請持の沢木七郎太夫を差置いて、本藩の重役に相談したものだから、怒った七郎太夫は久右衛門に対して木で鼻をくくったような対応をするようになった。そこで小四郎は久右衛門に万策尽きて引き籠りの病を患った振りをするよう献言した。この奇策が図に当って、文化十四(一八一七)年七月沢木七郎太夫は御役御免となった。

 

次に秋月藩御用請持として井手勘七が派遣されてきた頃には、田の刈り入れは終り、下記は赤く熟していた。館への沿道で、岸壁の上にある屋敷の柿の木に登っていた男が突然飛び降りて勘七の馬のそばに立って、頭を下げていた。勘七は「秋月には柔の名人がいると聞いていたが、その方のことだな」とよく響く声で言いながら通り過ぎていった。

 

赴任した翌日、井手勘七は役職にあるものを集めて、俸禄半減を打ち出した。二つの御所の造立と修復の出費八千五百両を本藩から借用しようとするなら、その前に秋月藩自身が俸禄半減を実行するのが道理である。それが可能なら、本藩と借金の交渉を始めると勘七は約束した。

 

翌日、小四郎は勘七の執務する御用部屋へ呼び出された。藤蔵が柿の木から飛び降りた件であった。勘七は「恫喝し様としたのだろうが、今後はそのような者は斬る」と腹の底に響くような厳しい口調で告げた。この声はどこかで聞いたことがあると小四郎は思った。

 

文化十五(一八一八)年一月小四郎は、前年の嵐で発生した観音山の崩落地の視察に出掛けた。残雪の山道で慌てて平伏した野良着姿の百姓女に出会った。姫野三弥によって惨殺された石工吉次の恋人いとである。今は、父と兄の三人で暮らしており、父と兄は田畑を肥やし、いとは山仕事をしているそうだ。郡奉行となった小四郎にぜひとも見せたい物があるという。それは納屋のそばの大桶だった。桶には水がたっぷり張られ、そこには真っ白な澱(おり)が沈んでいた。それは小四郎が幼少の頃から馴染んでいた葛であった。納屋を覗(のぞ)くと、床の上に戸板を敷き、その上に桶底の葛塊を手の平大に割って、並べてある。乾燥仕上り間近の葛片に走る不規則な無数の亀裂が、強く心に残った。

 

秋月ではクズのことを寒根蔓(かんねかずら)と呼ぶ。その根(寒根)を叩き潰して、水を張った大桶の中で揉みほぐし、根屑は捨て、白濁液を静置すると底に澱粉が沈殿する。褐色の上澄液は桶を傾斜させて排出する。新たに清水を加え、撹拌して底の澱粉を溶解した後、静置すると再び澱粉が沈殿する。このように、沈殿、排水、注水、撹拌、静置を繰り返して葛澱粉を精製してゆく。この工程を五回ほど経なければ純白の葛粉は生まれない。葛粉の生産期間は十二月中旬から三月末にかけてであり、暖かくなると精製中に澱粉が発酵し始めて品質が低下するのだ。

 

いとは祖母から寒根蔓のことを聞いて始めた葛粉づくりである。誰からも手ほどきを受けたわけではない。しかし今では、山仕事に来て、崖から滑り落ちて足をくじいた久助を助けたのが縁で、この男はいとの手伝いをしてくれるようになった。彼は葛粉づくりの要領を独力で会得していった。いとが仕事場へ小四郎を案内したのは、郡奉行である小四郎の力を借りて村人たちが葛粉づくりを出来るようになることを願ってのことだった。秋月は山に囲まれ平地が少なかったので、田畑からの収穫物が少なく、村人は皆貧しい暮らしをしている。だから、葛粉を秋月の物産にしたいのだ。小四郎は「この葛は秋月の名産になるかもしれぬな」と言いながら、白ゲ獄葛と名付けてくれた。白ゲ獄とは秋月の町の北東に位置し、この町を取り巻く山々の中では、ひと際高く、姿も美しい古処山の別名である。小四郎との出会いから三か月後にいとは久助に見取られながら、薄暗い納屋の仮作りの病床で静かに息を引き取った。いとが作り上げた製葛技術は細大漏らさず久助に受け継がれていた。村人挙げて葛粉造りだって出来る。今後の課題は買い手を探すことであると、小四郎は自らに言い聞かせた。

 

文政四(一八二一)年八月、小四郎は三十五歳になっていた。郡奉行の他に町奉行と御用人本役を兼務し、家老に次ぐ藩の重役になった。秋月藩御用請持の井手勘七に呼ばれ、大坂に出向いて、商人たちに借金返済を十二年間停止するよう申し入れるため同行を命じられた。この年十一月、小四郎は勘七とともに一行六名で大坂へ赴いた。銀奉行になっていた坂田第蔵も加わった。秋月藩では、金銭面で世話になっている大坂商人を中之島にある秋月藩蔵屋敷に招いた。料理が出て、酒もはいり座がくつろいできたところで、勘七が借財返済十二年停止の件を持ち出した。商人たち五人の代表格の油屋可兵衛は、即座に「あきまへん」とにべもない返事をした。さらにもう一人の商人葛野五左衛門は、福岡藩が秋月藩の借金の後始末をすることを示す保証がほしいと言い出した。小四郎と井手勘七の間で保証の件で擦り合いをする始末であった。とうとう借金返済の交渉が行き詰まってしまった。しばらく沈黙が続いた後で、小四郎は廊下に向って手を叩いた。一人の町人と数人の女中が皿を載せた盆を持って入って来た。皿には透き通った寒天様のものが載っている。砂糖と黄粉、黒蜜が添えてある。皿を覗き込んだ可兵衛が「これは葛やないか」と声を上げた。すかさず小四郎は、この葛粉が出来るまでの経緯を要領よく一向に語り聞かせた。葛を運んできた町人風の男が久助で、彼は紀州安田村、大和の大宇陀村まで行って葛粉づくりを習って来たことも紹介した。話の途中から可兵衛は葛もちに黒蜜と黄粉をかけて、せっせと口に運んでいたが、「この葛はなかなかのもんや、売れるで」と呟いた。続いて食べた他の商人たちは誰も可兵衛に反対しなかった。大坂商人たちは借財返済を保証する証文を本藩から取っても踏み倒す気になれば無いに等しい。葛粉の販売を手伝って賃金の埋め合わせをした方が得策だと踏んだのである。小四郎は文政五(一八二二)年に秋月に戻った。この時彼は三十六歳になっていた。

 

福岡県甘木市は、現存する著名な葛粉産地の一つである。今から一九〇年ほど前、筑前秋月藩の貧農の娘いとが、みじめな境遇の中で村おこしの起爆剤になってほしいと願って始めたのが葛粉づくりである。山仕事で収入を得ていた村では、山の幸に関する知識は豊富であった。この地方ではクズを寒根蔓(かんねかずら)と呼ぶように、冬期にこの蔓草の根を掘り取り、叩き潰して水晒しをすれば、澱粉が取れることをいとは知っていた。根の掘取りや運搬は女手に余る力仕事で、根を叩き潰すのも労力がいる。凍て付くような寒中の水晒しは耐え難い。いとはこのような難儀な工程をやりこなし、純白の葛粉を仕上げた。いとに山で助けられた久助は、製葛法の改良に励んだここでいとと間小四郎との出会いがなければ、せっかくの葛も陽の目を見ることはなかったであろう。小四郎はうまい具合いに葛を大坂商人に繋いだ。これが成功への端緒を開いた。大坂商人たちは貸倒れを防ぐために、葛粉の販路開拓に余念がなかった。以上のことは、現代の一村一品運動にたとえることができる。山間地の寒村で作られた新規特産品が都会のデパートの売場に並んだのと同様なことを意味する。いとと久助の作った葛粉は大坂、京都、江戸へも広がって行き、大成功を収めた。

 

ところで、間小四郎は家老の次席に相当する地位にまで昇り、文政十二(一八二九)年四十三歳で隠居し、余楽斎と号した。しかし、藩政への影響力は手放しはしなかった。第十代秋月藩主長元の治世(ちせい)になって、造船計画について強く諌言したため、逆鱗に触れて玄界島へ流罪となった。小四郎五十九歳であった。

 

小四郎は、天気の良い日はよく小高い丘に登り、岩に腰かけて北方の玄界灘を望んだ。波の音に耳を傾け瞑目(めいもく)すると、思い出すのは若き日の出来事、家族や恩師・友人たちのことだった。彼にとって人生最大の難関は、姫野三弥の父、福岡藩鷹匠頭の姫野弾正を頭目とする伏影一味十七人との果し合いであった。「織部崩れ」で盟約を果たした七人の同志の助太刀を小四郎のために説得して廻ってくれたのは、原古処の娘、男装の麗人猷(みち)であった。助太刀なしでは小四郎は打ち果されていたに違いない。

 

妙なことに、玄界島のクズが花を着ける頃になると、戸板の上に並べて乾かす姿が、入江で羽を休めて浮かぶカモメの群に似た白髪岳葛にまつわる夢をよく見る。いとに久助、福岡藩秋月御用請持井手勘七、油屋可兵衛ら五人の大坂商人たちの顔があった。あれはもう何年前のことだったろうか。自らの波乱万丈の生涯においても、まさに異例の出来事だったと言える。寒根蔓が村を活気づけ、藩を救うことなど夢想だにしなかった。

 

うららかな日差しを浴びた玄界灘の眺望が楽しめる季節を幾度迎えたことになるのだろうか。期せずして、家老宮崎織部の後を追う破目に陥った自らをいとおしんでいることに気づいて、余楽斎は思わず苦笑した。玄界灘は今日は終日凪だろう。

 

神戸大学名誉教授 津川兵衛

 

 

参考文献

 

秋月記 葉室麟 角川文庫 二〇一一年

甘木市史上巻 甘木市史編さん委員会 一九八二年