葛の話シリーズ 第六十話

 

葛のつる工芸研究会発足の頃

 

 

一九九〇年代初頭に始めたクズを巡る私の地域活性化活動を思い起こしてみると、断片的には鮮明な画像として思い浮かぶ場面もあるが、時系列的に眺めようとしたら、記憶は極めて曖昧なものになってしまう。日記をつける習慣が身につかず、活動記録をも取っていないので、私には二十年前の出来事など語る資格はない。そこで、二十年間にもわたり「葛のつる工芸研究会」に始まり、フィリピン・ルソン島中部のピナトゥボ火山噴火被災地における「クズを被覆作物として用いた果樹プランテーションの造成」、さらにルソン島北部の「世界遺産イフガオ棚田の保全」にも係わり下さり、非常に行動力があって、事務処理能力の面でも抜群の働きぶりを示された兵庫県丹波市山南町在住の瀬川千代子さんにお願いして、参考資料を提供してもらった。

 

一九九二(平成四)年の春たけなわの頃だったと思う。私は高校の同級生で、当時神戸新聞社丹波総局長の任にあった奥田泰輔君から講演依頼を受けた。氷上郡(現丹波市)山南町で町おこしに役立つような演題で、一時間ほど話してほしいとのことだった。詳細については、山南町から代表者が大学へ出向くので話し合ってもらいたいと告げられた。当時、私は講演の経験が乏しかった上に、この種の演題での依頼は初めてであった。「私でよければ」と何とも心許ない返事をするしか仕方がなかった。

 

五月に入って、元氷上郡教育長の村上彰先生(後にNPO・IKGS代表)と瀬川さん(同事務局長、現NPO・GNFP事務局長)が神戸大学農学部研究棟三階にある私の研究室を尋ねて来られた。当時、大学入学適齢期の人口急増のため、時限立法に基づき、神戸大学農学部の私が所属する園芸農学科にも五年間に限り毎年五名の学生の定員増が認められた。それに伴って、私の学科に教授、助教授(現准教授)各一名の増員があった。幸い私はこの臨時増募により予想より二年早く助教授に昇格できた。ただし、作物学講座から新規増設された植物資源開発学講座への配置換えである。この講座は期限を切って設置されたものだから、学生・院生は在籍せず、学生は作物学講座から回してもらうことになっていた。つまり、学生を貸してもらうのである。肩身の狭い思いをしなければならないだろうが、背に腹はかえられぬ。私は黙って新たな居室へ移った。そこは北向き窓の部屋で、冬は六甲おろしが窓を鳴らし寒い。夏は風通しが悪くて蒸し暑かった。大型実験台、金属製事務用机と椅子、空の金属製書架と同じく、空の金属製試薬・ガラス器具収納用戸棚が各一本無造作に置いてあるだけ。そんな所で村上先生と瀬川さんをお迎えしたものだから、お二人はきっと心許無い思いをされたのではなかったかと想像する。挨拶もそこそこに早速本題に入ることにした。

 

実を言えば、私は氷上郡山南町を何度か訪ねたことがあった。山南町は丹波オウレンで有名な薬草の里である。町の西北端に位置する西谷には、全国的に名を知られた薬草篤農家山下幸治さんがおられ、当時はオウレン、トオキ、セネガを主に栽培されていた。私は講義を受け持つようになれば工芸作物学を担当したいと考えていたので、山下さん宅へ薬草栽培の指導を受けるために出掛けていた。そんな訳で、私は山南町について多少の予備知識を持っていた。

 

当時、流行病のように全国的に蔓延したゴルフ場建設熱に山南町も侵されたようだった。これに絡む汚職で町長が交替し、次に誰しも異論を挟む余地のない「薬草で町おこし」が持ち上がった。神戸薬科大学加藤篤先生のご指導で山南町和田(丹波オウレン発祥の地旧和田村)に町立薬草薬樹公園が開園した。そのような状況下、山下さんは著名な薬草栽培農家であったから町おこし活動では指導的な役割を担っておられた。だから、薬草を通じて私と山下さんとの交流の経緯を説明すると、村上先生、瀬川さんのお二人は私に対して親近感を抱かれたようだった。

 

当時、私はクズを土壌流出防止に役立てるため、「クズの茎葉生産特性と群落構造の解析」のテーマで、植物生態学的立場からクズを研究していた。私は薬用目的にクズを研究していたわけではなかったが、葛根湯をも含めてクズの全てを調べてやろうと意気込んで研究に打ち込んでいたので、文献から薬用としての葛の特性に関する知見を集めていた。また、風邪薬、鎮痛薬としてのクズの効用を体験的に知っていた。そんな話を披露したので、お二人は私を町おこし講演会の講師として招くことを決定されたようだった。

 

一九九二(平成四)年六月六日、早朝に起床。電車で大阪に出て、JR福知山線に乗り換え、山南町に向った。私は、学生時代篠山から明石の実家に帰省する時はこの路線を使っていたので、沿線事情はよく知っていた。当時は石炭を焚く機関車が客車を牽引しており、トンネルのたびごとに窓を閉めなければならなかったが、今日は気動車なので煙の心配はない。また、複線化されていたので、対向列車を待ち合わせる必要もなかった。車窓を通り過ぎる初夏の稲田を眺めながら、本日の講演会のことを考えていた。「クズによる町おこしの件は今日の講演止まりで、実際にクズが山南町の町おこしに使われることなどまずあるまい」と呑気に構えていた。

 

山南町へは大阪から一時間半ほど、福知山線谷川駅で下車する。駅まで瀬川さんがお出迎え下さり、町差し回しの車で十数分の講演会場へ向かう。町立薬草薬樹公園内の企業会館「アラヤホール」には、「ふるさとを知る科学講演会―わが町の葛を生かそう―」のために約四〇〇人もの聴衆が集まって下さっていた。会場へ入ったとたん私は先ず聴衆の多さに圧倒された。過去に開催されたこの種の集会で、これほどまでの人数が参加したことはなかったと長らく語り草になっていたそうだ。参加者のうち男性は僅か十名ほどで、他は全て中高年の女性で占められていた。大学時代の同級生で、後に兵庫県農林水産技術総合センター所長になった高見昭弘君は、当時県農業改良普及センター所長で、奥田泰輔君と共に壇上に並んで私の話をご傾聴して下さった。演題の「わが町の葛を生かそう」の趣旨に沿って、結束料・家畜の飼料・土壌保全・葛粉・葛布・生薬・蔓編み細工の方面でクズは利用価値があることをスライドを用いて説明した。山南町の現状では、農業にクズを組み込むことは不可能であること。すでに産業化されている分野への参入には無理があること。多数の中高年女性の期待に添える町おこしの手法であること。これらの制約を考え合わせると、山南町の町おこしにはクズの蔓編み細工が最適であると言うことに落ち着いた。

 

話術の才のない者が、面白くもない地味な演題で論じても、単に睡魔を誘うだけだろうと思ったので、私は無闇に大声を張り上げた場面もあった。参加者は講演内容に物足りなさを感じられたに違いないと思って、私は聴衆の反応についてはあくまでも無関心を装った。すると瀬川さんは「あの箇所とあの箇所で笑い声が上った」と、私を慰めるように聴衆の反応ぶりを指摘して下さった。この講演会の主催者は山南町と神戸新聞社であったが、後援には氷上郡教育委員会、山南町いずみ会(食生活改善グループ)、山南町文化協会、その他町内四地区の地域活性化団体が名を連ねて下さっていた。さらに、静岡県掛川市からは葛布で町おこしを進めるグループ、四国からは葛紙を試作している個人の協賛もあった。(株)井上天極堂からは葛粉の寄贈を受けて、会場では葛粉を使った菓子や簡単な料理の試食会もあった。また葛籠、葛紙、葛布、および葛花を使った押し花、クズの葉とオウレンの根のブレンドを用いた草木染が展示され賑わっていた。私の講演よりも料理や展示物の方が本命の感さえした。実は私は心中これでだいぶん救われた気がしていた。

 

帰路、福知山線の車中では、「クズが町おこしに使われることなど、まずあるまい」と反芻しながらも、四〇〇人もの聴衆の姿に思いを巡らすと、「ひょっとしたら」と言う疑念が浮び始めていた。今後、クズはどのような方向へ歩むのだろうかと、ぼんやり考えながら列車の振動のリズムに身をゆだねているうちに眠ってしまっていた。

 

私の講演会の二ヶ月後の一九九二(平成四)年八月二十七日には、豊岡市にある兵庫県立但馬工芸指導所の元所長で、杞柳工芸に詳しい竹崎通善先生、山南町内に所在する県薬草試験地主任研究員澤田美代治さん、同町在住の主婦谷口愛子さんらが講師となって町立薬草薬樹公園内のアラヤホールで第一回「葛のつる工芸教室」が開催された。澤田さんはクズの植物学的特性についての講義を受け持ち、谷口さんには竹崎先生の指導補助をしてもらった。その後、山南町中央公民館において同年十二月九日までに二回の「葛のつる工芸教室パートⅠ」が開催されている。この「葛のつる工芸教室」は葛のつる編み細工愛好者を育てるのが目的で、受講者は町内だけでなく、外部からもやって来るようになった。「葛のつる工芸教室」の受講者は初回は二十数名であったが、第二回目には倍増していた。一九九三(平成五)年一月十九日から二十二日にかけて開催された恒例の「新春作品展」には、従来からの作品群に加えて、早くも葛の蔓編み細工の花瓶、リース、傘立、果物籠、オブジェが出品されていた。工芸教室の成果が実証されたものだから、クズに対する町民の関心はとみに高まる気配が見えた。

 

一九九三(平成五)年三月には町内の蔓編み細工愛好者が集まって「葛のつる工芸研究会」を結成し、会長には元町会議員の山口武司さんが選任された。多くの女性の中で唯一の男性だと言うことで異彩を放つ存在となった。中国の王荊公のザクロの詩の一節「万緑叢中紅一点」をもぢって「万緑叢中黒一点」と詠むなら、これはアボガドの詩の一節にでもなるのだろうか。女性陣は「万紅華中黒一点」とでも詠んでもらいたいだろう。この場合、黒一点とはどんな果実を想定したらよいのだろうかと、私は取り留めのないことを考えたりしていた。いづれにしても、男性会長就任は非常に評判を取った。三月二十九日には第一回目の「葛のつる工芸研究会」が開催され、いよいよ葛の蔓編み細工は本格化した。

 

一九九二(平成四)年には三回の「葛のつる工芸教室」、翌年七月までに三回の「葛のつる工芸研究会(第一~第三回)」を開いて、会員は自分たちの技術に自信を持てるようになったので、一九九三年六月二十六・二十七の両日、薬草薬樹公園内のアラヤホールで「葛のつる工芸展」を開催し、作品の販売もした。一九九三年七月から十月にかけてさらに三回の「葛のつる工芸研究会(第四~第六回)」を開催している。第六回目の研究会では葛の蔓を用いたリース(花輪)作りを習得するためにリース講習会から講師を招いている。毎年十月最後の日曜日(一九九三年は十月三十一日)は山南町挙げての「薬草フェスティバル」が開催される。当日は祭りの開催を象徴するアドバルンが薬草薬樹公園の空高く揚がり、各種の食べ物の屋台が出る。歌あり、踊りあり、餅まきまである。講堂では講演会もやっている。もちろん「葛のつる工芸研究会」は会員の作品を持ち寄って展示即売会を催して好評を博した。作品の価格は五百円から五千円の範囲である。その時、私は気に入って買った蔓編み籠を今でも持っているが、パンを入れるのもよし、果物を入れるのもよし。二十年後の今は造花をいけてある。このお祭りから葛の蔓編み細工、押花、草木染の三グループが一体となって自分たちの作品を出展するようになった。

 

一九九三(平成五)年十一月十一・十七の両日、久しぶりに竹崎通善先生を招いて「葛のつる工芸教室指導者養成講座」が開かれた。これは「葛のつる工芸研究会」の会員の中から「葛のつる工芸教室」の受講者に蔓編み細工の技術指導ができる講師を養成するための講座である。

 

「葛のつる工芸研究会」は一九九三年十一月二十七・二十八の両日、ほぼ半年ぶりにアラヤホールで工芸展を開催し、即売もした。私が聞いたところでは、会員は自らの作品の中で最も気に入った物は決して即売会に出品せず、家に飾って一人眺めて楽しむそうだ。それを凌駕する出来映えの作品を制作できた時に、やっと前の作品を手放す気になると言う。

 

会員の方々は大変研究熱心で、技倆は日々刻々と向上しているものと見受けられた。即売会を何時開いてもよいように、各自即売用の作品をかなり蓄えられているようであった。研究会にとっては、自らの技術向上だけではなく、葛の蔓編み細工愛好者を増やすことも大きな課題である。幸い山南町中央公民館へは「葛のつる工芸教室」の受講問い合わせは引きも切らず、担当者は嬉しい悲鳴を上げていた。年の瀬も押し迫った一九九三年十二月の七、十五の両日に、葛のつる工芸研究会会員が講師となって町中央公民館で「葛のつる工芸教室パートⅡ」を催した。パートⅡでは、「葛のつる工芸研究会」は初心者向けに「葛のつる工芸教室パートⅡ」と題する籠編みの基本を示すテキストを作成している。

 

一九九四(平成六)年には二、四、六、および十月に各一回、計四回「葛のつる工芸教室パートⅢ」を開き、葛のつる工芸研究会会員が講師となって受講生に蔓編み細工を教えた。この時期には、研究会は次のような特筆すべき二件の催しを実施した。一九九四年三月五日には「NHKおしゃれ工房」の講師をされ、全国各地のカルチャー教室で籐編み細工を指導されている真木雅子さんを迎えて「葛のつるデザイン教室」を催した。本デザイン教室の主たる目的は葛の蔓編みに籐編みの手法を導入することであったが、クズの蔓の特徴を考えてみるよい機会を与えてくれた。一概にクズの蔓と言っても、一年生の細い蔓から多年生の太い蔓までさまざまな径の蔓がある。また、クズの蔓は節くれ立ってごつごつしている。クズの蔓は枯れると痩せてくる。このように、場合によっては欠点となる特徴を蔓編み細工にいかに上手に活かすかを今回のデザイン教室は教えてくれた。軟らかくて編み易い生きた蔓を使って籠を編んだ。しばらくして蔓が枯れて痩せてくると、籠の胴部や取っ手に隙間が目立つようになった。こんな時には新たに蔓を加えて補修すると、かえって見端が良くなることも学んだ。

 

クズの当年茎(葉を付けた緑色の若い茎)を支柱に巻き登らせて育てる。二、三年たてば、茎は支柱に食い込むように巻いている。支柱を抜き取るとコイルばね(つるまきバネ)の形状をもつ蔓が出来上るだろう。また、二本の蔓を捩るように、あるいは三本の蔓を三つ編みするように束ねて作った素材は、蔓編みに斬新なデザインを付与してくれるように思われる。このような形状の蔓の活用は、葛の蔓編み細工の幅を大いに広げてくれるに違いない。

 

「葛のつる工芸教室」の受講生のために大量のつる編み材料が必要な場合は、蔓を採取しやすい晩秋から早春にかけて採り、溜め置きする。そして、枯死して痩せた蔓を使用前に水で戻すとよい。クズの蔓編み細工独特の知識が集積し、新たな技法が生まれ始めた。

 

蔓編み細工の素材はクズの他に、トウ、アケビ、アオツヅラフジ、サネカズラ、スイカズラ、フジなどが挙げられる。クズの蔓と他の素材とを混ぜ編みすることも出来る。蔓編み細工を始めてから二年もたつと、混ぜ編み、つまりクズ以外の植物の蔓を混ぜ込んだ作品も現われ始めた。それに伴って、研究会の名称から「葛」の語を取り除いた方がよいのではないかと言う声が上った。「つる工芸研究会」だといかなる植物種の蔓編み細工にも使えると言う理由からだ。しかし、「葛」がないと団体の名称として没個性的になる。そもそも葛のつる工芸は「葛こそオンリーワン」の掛け声で始めた事業である。一割でも、二割でもクズの蔓が混ぜ編みしてあれば、「葛」と名乗った方が良いのではないかと言うのが私の持論だった。

 

(株)井上天極堂は毎年九月に開催する「葛の日」のイベントのために、過去に山南町の「葛のつる工芸研究会」を招いて葛の蔓編み体験を実施したことがある。非常に好評だったので山南町の研究会に再度頼み込んだが、会員の高齢化が進んだため奈良までの講師派遣は無理だとの返事があった。そこで天極堂経営企画室の川本あづみさんはインターネット上で蔓編み細工の講師を時どき探してみると言う。蔓編み細工を指導している個人や団体は多数あるのだが、山南町の「葛のつる工芸研究会」を除くと、今だに「葛」を名乗るものは皆無だそうである。

 

もう一件の特筆すべきことは、一九九四(平成六)年十月十四日に開催された「葛のつる工芸教室パートⅢ」第四回目(最終回)の会場は山南町立和田小学校であったことだ。もちろん、講師は葛のつる工芸研究会員で、受講生は小学生である。蔓を編む講師の手元を見つめる子供たち瞳は、好奇心で満ち溢れ、キラキラ輝いていた。子供たちは講師の注意を素直に聞いた。やがて、あちこちで孫の手を引く慈悲深い祖母にたとえられる光景が見られたそうだ。後年、文科省の肝煎で「ゆとり教育」なる教科が実施されたが、単なる思い付き科目だと不評を買った。十分に準備期間を設け、現場教師に丸投げするのではなく、適切な材料を見つけ出し、信頼できる助っ人に頼めば、それなりに成果は上ったのではないかと思われる。私は和田小学校での蔓編み細工の講習の様子を聞いて、そんなことを考えていた。

 

一九九二(平成四)年八月二十七日から一九九四年十月十四日までの間に「葛のつる工芸教室」と「葛のつる工芸研究会」の両者は、合計で二十三回開催されている。そのうち展示即売会とかデザイン教室を兼ねて実施した場合は、大人数が集まるので薬草薬樹公園内アラヤホールを借用した(計五回)。小学校の体育館も一回ある(和田小)。残り十七回の開催場所は山南町中央公民館(十三回)か町内地区公民館(四回)である。開催場所からも推察されるように、葛の蔓編み細工は山南町では公民館活動の一環として取り上げられたものである。

 

時がたつのは速いもので、私が葛のつる編み細工を町の特産品にするよう勧めた講演会からほぼ二年半が過ぎていた。「葛のつる工芸研究会」の発展ぶりは、私の予想を遥かに超えて目覚しいものがあった。この頃、山南町では別のグループが「国際葛グリーン作戦山南(IKGS)」と呼ぶNPOを結成して、クズの種子採取をしていた。クズの種子はフィリピン・ルソン島中部のピナトゥボ火山爆発被災地で、クズを被覆作物として用いた果樹プランテーション造成に使われていた。IKGSは海外経験が乏しかったためプランテーション造成事業は神戸のNGOに依存していた。しかし、種子の使用状況とか、プランテーション事業の進展について、一切IKGSへの報告がないのに、アエタ族救援における神戸のNGOの過大なマスコミへの露出ぶりにIKGS会員の間には次第に不信感が募っていった。当時、瀬川さんは山南町中央公民館のパート職員の職務をこなしながら「葛のつる工芸研究会」と「IKGS」の両方の事務局の重責を果してきたのであった。「葛のつる工芸研究会」の方は事務局を他の会員に任せられるほど充実した発展ぶりを見せていた。ところが、神戸のNGOが不祥事がらみでピナトゥボからの撤退を余儀なくされたため、「IKGS」はクズの種子採取から現地でのプランテーション事業まで自前で行わざるを得ぬ破目に陥ってしまった。そこで瀬川さんは、「葛のつる工芸研究会」の事務局運営は他の会員に頼み、自身は「IKGS」事務局長に専念することを決意した。このような理由から、筆者は一九九四(平成六)年十一月以降の「葛のつる工芸研究会」の活動記録を入手することが出来なかった。

 

たとえ二年半の短かい期間であっても、精力的に活動しておれば予想していなかったところで世間の注目を浴びるようになるものだ。当時、公民館関係者の間では「生涯学習」が声高に叫ばれて、この運動が全国的な広がりを見せ始めていた。一方、蔓編みは手先の運動機能を改善する。また、これは指先を十分に動かすことにより頭脳に適度の刺激を与え、認知症の予防に役立つと考えられるので、蔓編み細工は中高年者向きの優れた作業であるとの評価を受けるようになった。そして「葛の蔓編み細工」と「生涯学習」とが自然に結びついた。葛の蔓編み細工を生涯学習に導入するために、山南町の「葛のつる工芸研究会」の活動ぶりを他県の公民館関係者が視察に訪れることもあった。

 

二〇〇七(平成十九)年のことだが、所用で兵庫県北部の朝来市へ出掛ける機会があった。途中丹波市青垣町の道の駅で蔓編み細工展示会のポスターが目に止ったので、展示会場となっている町営施設「いきものふれ合いの里」へ尋ねて行った。展示会は前日で終っていたが、幸い作品は片づけられておらず、そのままにしてあった。籠、リース、オブジェなど、懐しいクズの蔓編み細工が陳列されていた。私が名刺を渡して名を告げると、「山南町の工芸研究会の方々からよくお聞きしています」と言う返事が帰ってきた。しばらく話をしていると、初対面でありながら旧知の間柄のような気がしてきた。その後、瀬川千代子さんからお聞きしたところでは、山南町では蔓編みをする人は減少したが、その代り丹波市内の他町へ広がっていると言うことであった。拙文を書くに当り、瀬川さんからご紹介を受けた丹波市山南町在住の段家清子さんへ「葛のつる工芸研究会」の最近の活動状況を問い合わせたところ、次のような返事があった。工芸研究会会長は初代の山口さんから段家さん(二代目)に引き継がれ、現在(平成二十四年)は鯉ノ内和子さんが三代目会長を務められている。会員数は六名にすぎないが、各自蔓編み技術はプロ級である。「葛のつる工芸教室」は薬草薬樹公園西隣りの「丹波の湯リフレッシュ館」の別館にある「遊工房」で開講しているとのことであった。開校日は月一回で、第三日曜日となっている。葛のつる編み細工の常設展示場は前出のリフレッシュ館。JR福知山線谷川駅構内の山南町観光案内所および西脇市から国道百七十五号線を北上して丹波市へ入って間もなくにある道の駅仁王門である。丹波市青垣町の「いきものふれ合いの里」では毎年一月末から三月にかけて作品を展示している。また、尼崎市民との農業関係の交流会において、正月飾りとして山南町特産の松の若枝を組み込んだ花籠づくりを教えている。

 

神戸大学名誉教授 津川兵衛