葛の話シリーズ第七十七話

 

 

郷土の神仙 役小角(えんのおづぬ)

 

役小角は舒明(じょめい)六(六三四)年元旦に大和の国葛城(かつらぎ)の上郡(かみのこおり)茅原(ちはら)の郷に生まれた。現在、奈良県御所(ごせ)市茅原の吉祥草寺と言う名の寺院が生誕の地である。この寺には、役小角が産湯を使った井戸が史跡の一つとして保存されている。ちなみに、井上天極堂は今から約百五十年前に葛城郡葛村(現御所市戸毛)で葛粉製造業を興している。当地方に産する葛粉は、吉野【奈良県吉野郡国栖(くず)、葛の呼び名の発祥の地】生まれの吉野育ちで、葛粉の代名詞「吉野葛」として全国的に通用するまでになっている。他方、役小角は吉野地方の山や野を自身の庭として駆け回って育っている。もちろん成人した後も、小角は吉野を修験者としての活動の中心地として修業を積んだ。

 

 

役小角の誕生にまつわる不思議な話がある。母は妊娠した時、天から金の独鈷杵(どっこしょ)【仏具の一種、銛(もり)の変化したもので、密教では悟りを妨げるものを追い払う意味を持つ】が雲に乗って下りて来て口の中に入って、妊娠したそうだ。また、小角の名前の由来には諸説があるようだ。前頭部にキリンのような小さな角の形があったから、小角自身が養父に小角と名付けるよう頼んだそうだ。小角の家が雅楽の筋であったので、大角・小角と呼ぶ笛の名から取ったとも言われる。その他、小角の出生にはさまざま謎めいた逸話が伝わっていて、これらの事柄が小角を謎深い人物に仕立て上げている。しかし、役小角は葛城地方を根拠地とする大豪族の出であることは役小角研究者の一致した見解のようだ。

 

 

役小角は十三歳から毎晩葛城山系に登り、夜明けに帰宅する生活を送っていたと伝えられている。十七歳で出家し、藤の皮で作った衣を着て、松の葉を食べるようになった。三十二歳の時、葛城山に籠って修行すると言い出した。母は反対して、「一人の親を捨てて、山に入っても神仏の御心にそわない。一人子のおまえをどうして山に捨てることが出来よう」と掻き口説いて、断念するよう迫った。しかし小角は自分とそっくりの木像を作って、母への形見として残し、夜中に家を抜け出してしまった。その後、役小角が金剛山へ登って帰らないという噂が世間に広まり、天智天皇の耳に達した。天皇は小角の敷地に堂を建立すべしとの勅命を下した。直ちに寺が建てられたことが天皇に伝えられたので、天皇はそれに茅原山金剛寿院吉祥草寺の号を与えられた。本堂には五大尊を安置し、伽藍神の社には熊野権現の分霊を迎えた。行者堂には小角自作の遺像を安置した。小角は家を出てから三十余年間にわたり、家に帰ることはなかった。役小角はどこへ旅するにも藤の衣を着て、頭に角帽子(すみぼうし)、手には独鈷杵と錫杖(しゃくじょう)、足には下駄の出立ちであった。常に、前後に二匹の鬼が供をし、野山をまるで飛ぶように駆け抜けた。役小角の事跡をたずねると、次のように数多くの不可思議に出くわす。このことは、小角が神仙(神通力を得た仙人)と呼ばれる所以(ゆえん)である。

 

 

背丈が三メートルもある鉾を持った悪鬼と錫杖で戦って追い払った。火炎を吐き、頭と尾の位置がわからないほどの大蛇を錫杖で両断して、谷底へ蹴落とした。女人に化け、小角を誘惑しようとした獣を独鈷杵を投げて追い払った。小角は鬼王に引導されて浄土で仏と会って、法を聞くことが出来た。松の葉だけを食べ、山神を祈った。また法喜菩薩を念じ、昼夜修行した結果、神通力を得て、五色の雲に乗り空を飛べるようになった。[天智四(六六五)年]

 

 

大峰に登って、十界(十種に分けられた迷いと悟りの全世界)輪円の妙道に達した時、地水風火の神々が地から湧き出て、小角を守護した。鬼神は侍従となり、狼・猿・狐・貉(むじな)も慣れ親しんだ。このように全ての物が小角を加護した。白淨上人・善顕法師・了満比丘らが小角の徳に感動し、つき従って修行した。[天武九(六八〇)年]

 

 

大峰から熊野へ行き、熊野三山の神々に拝謁した。さらに紀州の三栖山(みすざん)などを巡った。[天武十一(六八二)年]

 

 

熊野三山へ行き、護摩供(密教で護摩壇を設け、護摩木を焚いて息災、増益、降伏、敬愛などを本尊に祈ること)を百回行った。[天武十二(六八三)年]

 

 

熊野の両所権現へ参詣に行く途中、不浄の血が道に溢れて通れなかった。すると空から、「川で沐浴(もくよく)し、大中臣(おおなかとみ)の祓(はらえ)を読んだなら、道も身も清浄になろう」と声がした。

 

 

仏道修行者を食う鬼女と出会ったが、咒(じゅ)を唱えると、鬼女の姿は小さくなり、人を食する心がなくなった。[天武十二(六八三)年]

 

 

相模の八菅山(やすげやま)に行き、一昼夜で薬師・地蔵・不動石像を各百体彫って開眼供養した。そして、それぞれ縁のあるところへ住まわせた。[天武十三(六八四)年]

 

 

入定(にゅうじょう)【禅において瞑想の世界に入り、なかば人間の身を離れて飛翔する超人間的状態になること】して、南インドへ行き龍樹大士と会い、経典をもらった。[和銅三(七一〇)年]

 

 

入定して、天竺へ行き文殊(もんじゅ)師利菩薩と会い、寿量無辺経をもらった[霊亀元(七一五)年]

 

 

小角は山嶺へ到着して平穏を得ると、茅葺きの庵を結び、孔雀明王の呪、不動威怒王の真言を誦することが常であった。

 

 

役小角は諸国を巡り、次に挙げる多数の山岳を踏破し、修行に励み、数々の足跡を残している。

 

 

大化二(六四六)年 葛城山(奈良県)十三歳

 

大化五(六四九)年 生駒獄(奈良県・大阪府)十六歳

 

白雉元(六五〇)年 大峰山(奈良県)十七歳

 

白雉五(六五四)年 断髪山(大阪府)

 

生駒山(奈良県・大阪府)二十一歳

 

斉明四(六五八)年 箕面山(大阪府)二十五歳

 

天智四(六六五)年 葛城山(奈良県)三十二歳

 

天智六(六六七)年 大峰山(奈良県)三十四歳

 

天智七(六六八)年 笠置山(京都府)三十五歳

 

天智九(六七〇)年 大峰山(奈良県)

 

羽黒山(山形県)

 

月山(山形県)

 

湯殿山(山形県)

 

烏海山(秋田・山形県)三十七歳

 

天智十(六七一)年 赤城山(群馬県)

 

二荒山(栃木県)

 

弥彦山(新潟県)

 

立山(富山県)

 

白山(石川・岐阜県)

 

越智山(福井県)

 

比叡山(京都府・滋賀県)

 

愛后山(京都府)三十八歳

 

天武元(六七二)年 羽黒山(山形県)三十九歳

 

天武二(六七三)年 富士山(静岡・山梨県)

 

足柄山(神奈川県)

 

天城山(静岡県)

 

筑波山(茨城県)

 

浅間獄(長野県)

 

駒嶽(山梨県)

 

御嶽(長野・岐阜県)

 

笠置山(京都府)四十歳

 

天武四(六七五)年 生駒山(奈良県・大阪府)四十二歳

 

天武七(六七八)年 金峯山(山形・秋田県)

 

八栗獄(香川県)

 

背振山(福岡・佐賀県)

 

彦山(福岡・大分県)

 

霧島山(鹿児島県)

 

高千穂峰(宮崎県)

 

速日嶽(宮崎県)

 

阿蘇山(熊本県)

 

朝倉山(福岡県)

 

御笠山(福岡県)

 

宗像山(福岡県)

 

磐国山(山口県)

 

黒髪山(栃木県)

 

八上山(島根県)

 

手間山(鳥取県)

 

杵築山(大分県)

 

大山(鳥取県)

 

大江山(京都府)四十五歳

 

天武八(六七九)年 朝日嶽(山形県)四十六歳

 

天武九(六八〇)年 大峰山(奈良県)

 

葛城山(奈良県)四十七歳

 

天武十一(六八二)年 熊野三山(和歌山県)五十歳

 

天武十二(六八三)年 三熊野(和歌山県)五十一歳

 

天武十三(六八四)年 八菅山(神奈川県)五十二歳

 

持統二(六八八)年 愛宕山(京都府)五十六歳

 

持統四(六九〇)年 羽黒山(山形県)五十八歳

 

文武三(六九九)年 富士山(静岡・山梨県)

 

天城山(静岡県)

 

足柄山(神奈川県)六十七歳

 

大宝三(七〇三)年 八菅山(神奈川県)六十九歳

 

慶雲二(七〇五)年 彦山(福岡・大分県)七十三歳

 

慶雲四(七〇七)年 大峰山(奈良県)七十四歳

 

 

役小角の生まれた御所市の吉祥草寺からは、金剛山や葛城山の美しい姿が望まれる。だから、彼は少年のころから山には格別の憧れを抱いていたようだ。十三歳で葛城山、十七歳で大峰山を踏破しているので、三十二歳で家を出るまでに、既にこれらの地域の事情は自分の庭のように熟知していたものと思われる。山の幸、野の幸についての知識・体験は豊富で、本草・薬学・医術に精通していた。たとえば、小角は山野の薬草から胃腸薬として有名な「陀羅尼助」を作り、民衆に与えた。筆者の体験では、真夏に胃腸の働きが衰え、食欲を失っている時、非常に苦いこの薬は、一気に唾液と胃液の分泌を旺盛にして夏ばて解消に役立った。今でも、「猫の糞(くそ)」と呼んでいるこの薬のことを思い出すと、思わず唾が湧き出すような気がする。また、小角は国栖(くず)と呼ばれる蔓草の根を潰して、水で晒して澱粉を採る製葛技術を習得していたので、立ち寄り先では製葛法を伝授していたであろう。

 

 

吉野山は古くは金峯山(きんぷざん)と呼ばれていたことからも推測されるように、金を産出する山だった。ここでは金は昭和(一九二六―一九八九)半ばまで採掘されていた。このようなことから、小角は山で鉱脈を探す金鉱師としての技倆(ぎりょう)を持っていたと思われる。金だけでなく、水銀・硫黄・その他重要金属についても、鉱脈探査・採掘・精錬の知識と技術を保持していたものと考えてよい。

 

 

ところで、貴金属の採掘と製葛の間には妙に縁があるように思われる。吉野だけではなく、石川県の宝達金山と宝達葛、島根県の石見銀山と石見西田葛が著名な例であるが、全国的に調査すれば多数発見されるのではなかろうか。鉱山の掘削用具は葛根掘りにも兼用できる。鉱夫は穴掘りに馴れている。山地なので葛を晒すために良質の水が得やすい。抗道内の作業で鉱夫の疲労が激しく、食欲がなくなるが、葛湯なら食べられる。ダゴ葛(粗製葛)は健康食品、薬用に使われる等、製葛条件が整っていたことと葛粉の需要があったからである。なお、この場合の需要は自家用であったから、鉱山の廃業とともに製葛も消滅した。しかし、現在でも葛粉産地として残っているところには、近くに和菓子用の大量消費地があるとか、土産用に販売できる観光地がある。以上に述べたように、東北・北陸から九州まで修験道を極める旅の途中で、自らの持つ知識・技術・情報を用いて、飢餓・病気・貧困から民衆を解放していった。だから、民衆から厚い信頼を得ていたことは容易に想像がつく。小角が見知らぬ土地を安全に通行出来たのも、その代償としてさまざまな形の地元への貢献があったと考えるのはうがちすぎだろうか。

 

 

見知らぬ土地を旅すれば、道に迷わぬはづはない。街道筋をはずれると人の往来は途絶えてしまった。ただ山脈が黒々と続くだけで里の灯火はまったく消え、寝静まっていた。しかし、満天の星空では、星たちは眼下の人間世界の存在などには無頓着な様子で、勝手気ままにさんざめいている。小角は幼い頃から星座を学び、長じては天文に通ずるようになっていたはづだ。これは修験道を修めようとする者の必須の要件であったろう。役小角も夜道に迷った時に方角を問い掛けるのはあの北極星であった。

 

 

地球は自転しているので、夜空の星は刻々と動いて見える。地球の自転は北極と南極を結ぶ線を軸にして行われている。地球の自転軸の真北に北極星があるから、この星は動かないように見える。北極星の方向が北である。ところで、この星の近くに、七個の星が柄杓(ひしゃく)【竹・木・金属で作った水を汲み取る道具で、コップ状の容器部分と棒状の柄の部分からなる】の形に並んでいて、目立つ星座がある。この柄杓を裏返して置き、柄の部分を下方に、容器部分を上方に向けて斜めにかざす。容器部分において、柄と反対側の辺を水の出る方向に五倍伸ばすと北極星にたどり着く。

 

 

役小角が修験道の研鑽を積むため、山々を回り巡った日々から一三〇〇年以上がたつ。今では、小角が開いた峰々を巡る山岳路をたどる修験者の姿を見ることはほとんどなくなった。その代り、シーズンになれば、役小角の名さえ知らぬスポーツ・レクリエーションのための登山者が大挙して山々へ押しかける。中には山ガールと称して、登山服姿や装備の華やかさを競ううら若い女性たちの噂も聞こえて来る。夜間登山で方角を見失って、パニックに陥った。気を静めて、北斗七星の配置から北極星を割り出し、安堵して胸を撫で下ろした例は沢山あるだろう。この北極星は、またの名を「天極」と呼ぶことをご存じだろうか。

 

 

神戸大学名誉教授 津川兵衛

 

 

 

参考文献 超人役行者 志村有弘 ㈱角川書店 一九九六年