葛の話シリーズ第十九話

 

静岡県掛川市「葛布(かっぷ)の里構想」の頃

 

 

二〇〇二年四月末から五月初めにかけてのゴールデン・ウィークの間に、静岡県掛川市在住の内田定男さんから、「馬鹿な奴生きて生きて生きてー或る地方公務員の生きざまー」のタイトルが付いたいわゆる自分史が、退職を知らせる挨拶状とともに私のもとへ届いた。同じ日に、同じく掛川市の手織り葛布織元、川出幸吉商店川出茂市さんから、兵庫県姫路市のデパートヤマトヤシキ姫路店で五月一日~六日に開催される「日本の伝統展」に出店する旨の案内状が送付されてきた。

 

自分史と案内状を机の上に並べて見たとき、十年ほど前に、「葛布で町づくり」計画に参加して、熱くなっていた頃のことが、急に懐かしく思い出されてきた。そして、姫路へ行って久しぶりに葛布(クズの若い茎から採った靱皮繊維で織った布)に会ってみたい気持ちになった。

 

五月五日、JR新快速の車窓から、通りすがりの風景を見遣りながら、一昔前の葛布にまつわる思い出に浸っていた。明石から姫路までの所要時間は半時間ほどである。正午前に白鷺城の見えるJR姫路駅に降り立った。

 

朝方は曇天だったようだが、昼前にはすっかり晴れ上がり、繁華街を南北に貫ぬく御幸通りは、子供の日とあって、そぞろ歩きを楽しむ親子連れで賑わっていた。

 

ヤマトヤシキ八階ライブホールの「日本の伝統展」会場は、かなりの人出だ。宮崎の竹家具、土佐のさんご細工、長崎のべっ甲細工、広島の熊野筆、出雲石灯籠など左右の工芸品に目を向けながら進むと、奥の一角を占める掛川葛布が目についた。川出商店は明治三年創業で茂市さんは四代目幸吉を名乗っている。

 

最近では、地方への出店には茂市さんが出張することは滅多にないと聞いていたが、今回も長男の英通さんご夫婦に任されている。英通さんは葛布の色紙掛けを買い求める数人連れのご婦人方の応待に忙しそうだった。私は秋田杉桶樽、浅草手植えブラシ、京のまな板の実演を見ながら会場を一巡りして、客の空くのを待って再び店先に立った。

 

南画を習う家内に頼まれて、私は何度か英通さんに色紙掛けを注文したことがあるので旧知の間柄なのだが、それでも初対面だったので名刺を交換した。英通さんは会津木綿の紺の作務衣姿だった。奥さんも作務衣姿で機織を実演してみせる。

 

掛川で出会った人たちの消息が一番気掛かりだったので、真先に尋ねてみた。父茂市さんは八十二歳だが、お元気とのこと。内田定男さんは定年退職前に脳梗塞で倒れて床に伏していたが、リハビリに励んだ甲斐があって、時おり街で姿を見掛けるほどにまで回復されているそうだ。他に、「葛布の里構想」の仕掛け人の一人で、掛川でコンサルタント会社を経営する高橋國男さんの近況も聞くことが出来た。英通さんは、掛川ライオンズクラブの活動などを通じて、高橋さんとは昵懇(じっこん)の間柄なのだそうだ。

 

懐かしさのあまり、商売を奥さんに任せて立ち話についつい熱中している間に、客が立て込んできた。邪魔をしてはいけないから、私は退散することにした。

 

昨今ではさまざまな分野で、「ナンバーワンよりオンリーワン」なる合言葉が標榜されつつあるが、約十年前に掛川で持ち上がった「葛布の里構想」こそ、これぞオンリーワンというべき町おこし・町づくり計画の典型である。あの時の主たる登場人物や情況を思い起こしながら、その計画のあらましを述べよう。

 

掛川市は「生涯学習」の造語を生んだ町だ。時代の要請に答えて、全国に先駆け「生涯学習まちづくり土地条例」を制定したことで名を馳せた。この条例の具体化を計るに当たり、当時掛川市農林課勤務だった内田定男さんは、地域住民や有職者と中山間地の活性化ならびに自然環境保全について何度も話し合いを重ねていた。そんな中で、「生涯学習としての葛布産業の育成」の課題に行き着いたと言う。これは、生涯学習の一環として全国唯一の掛川葛布の歴史を明らかにし、後世に残すために資料を保存し、さらに先端技術や斬新なアイデアを導入して、衰退しつつある伝統産業の復興をねらったものである。この構想を実現するために、内田さんと葛布織元の川出茂市さんが結び付き、さらにクズに関する学識経験者としての私に声が掛ったのである。

 

私が初めて掛川市の「葛布で町おこし」の計画を知ったのは、平成三(一九九一)年七月半ば市農林課の内田さんから頂いた突然の手紙による。当時、私は内田さんとは面識はなかったのだが、川出さんとは、葛布製造に関する資料を送ってもらったり、クズの若茎の採取から葛苧づくり、葛つぐりの製造、葛布織りに至る工程について、現場へ案内してもっらてご教示を受けたりして懇意になっていた。だから、私は葛について論文を書くと川出さんへ送ることにしていた。食品工業三十四巻七号(一九九一)に掲載された私の論文「葛粉製造の復興で町おこし」の別刷りも川出さんに送ったのだが、これが内田さんの目に止ったらしい。氏は、島根県温泉津町西田の人々の熱意ある取り組みに感動して、掛川でも伝統工芸の手織り葛布を復興して、次代に伝えることを考えたようである。そこで、葛の研究者である私に葛布による町おこしアドバイザーとしての白羽の矢が立ったわけだ。

 

平成三年の夏には、内田さんからクズの植物学的一般知識、クズのさまざまな用途、クズを使った町おこしの事例、葛布原料としてのクズの栽培等に関する質問を書き連ねた何通もの手紙が私のもとへ届いた。そのたびに、長い返事を書き送ったものだった。幸いなことに、思ったよりも早く内田さんの誠意溢れんばかりの努力が実って、その年の夏が終わる頃には榛村純一掛川市長直々のヒヤリングが実施された。そしてついに、掛川市の伝統工芸葛布の原料確保を、山村林業の活性化と抱き合わせて、国庫補助事業(特用林産物伝統工芸原材料確保事業)計画として提案するところまで漕ぎ着けた。九月には市商工課と商工会議所の担当者、農林課の内田さん、それに掛川手織り葛布組合の方々による伝統工芸葛布産業育成への取り組みについて話し合いがもたれた。

 

その後、組合員の葛布製造業者が数回にわたり会合を重ねるうちに、組合設立当時に立ち戻り、初心に帰って「葛布で町づくり」事業を本気で進める気になるほどにまで、全員が意気高揚してきた。そして、昭和四十五(一九七〇)年の掛川手織り葛布組合結成時に関係者に送付した設立趣意書「何故組合をつくるか」の熱い思いを再度確認し合ったものだった。「組合員の皆さんのこのような積極的な姿勢を見るのは久しぶり」と商工会議所事務局の担当者は驚いたと言う。

 

十一月に入って内田さんからの便りには以上のような情況が述べられており、末尾には本構想の立ち上げを記念して私への講演依頼の件も書き添えてあった。

 

平成三年十一月末には、掛川のコンサルタント会社樹生の社長高橋國夫さんから掛川市長へ、「葛布で町づくり」を進める上での調査・コンサルティングに関する見積書が提出された。いよいよ年の暮れも押し迫った二十七日に、掛川市孕丹(孕石と丹間)地区長佐藤幸男さんから「これっしか文化・工芸コミュニティ葛の里イン孕丹構想」策定要望が区民連署の上で市に陳情された。

 

平成四(一九九二)年二月初めに内田さんから届いた「葛つた加工施設構想」ヒヤリングメモによると、掛川銘産の緑茶の生産から販売に至るまでの流れが葛布製造にも当てはまるので、葛つた(葛の若茎)の採取から、葛つた加工(蒸し、芯抜き)、葛苧(紡ぎ)、葛布手織り(あるいは機械織り)加工・販売までを緑茶製造と同様に、専門的に分担すべきだとの提案がなされたようである。

 

二月二十一日には農林課へ申請していた「葛苧加工プラント調査研究費」の予算措置が行われたとの内田さんからの連絡が入ったが、その課題の重要性と難問が山積していることを改めて認識して、責任の重大性を感じているとしたためてあった。

 

さて、これから葛布で町おこしの企画書づくりが大変だ。コンサルタントの高橋さんを中心に内田、川出の両人が脇を固め、私も加勢した。諸般の調停役を市商工会議所事務局貝嶋良晴さんにお願いして、県工業技術センター研究員、民間企業役員、葛布組合長、郷土史家、地区代表を合わせ総勢十名で、「葛の里構想ーこれっしか文化とも言うべき葛布文化の伝承を」の立案プロジェクトチームが発足したのである。

 

掛川の名物・銘産の中でも、長い歴史とかぐわしい伝統文化をはぐくんできた古代織物の葛布は出色だ。なにしろ、葛布製造はわが国では掛川で唯一現存するにすぎない。

 

掛川葛布に強い関心をもつ人たちは、古くは江戸時代から昭和の前半に至る葛布が隆盛を極めた当時の記録をひも解いては、往事を羨望すると同時に、葛布を目玉にして町おこし、町づくりを進めることを夢見ていた。だから、「葛布の里構想」を立案するのに役立つ参考資料はたくさんあった。なかでも、学校の先生方が組織された小笠社会科サークルが、社会科教育のためにまとめた「郷土の伝統工芸織ー掛川の葛布ー」から引用させてもらったり、私のクズに関する研究成果も多少は役立ったので、計画書づくりは比較的スムーズに進んだ。

 

平成四(一九九二)年四月、市農林課から水道事業所への内田定男さんの異動は、本人にとっても辛かっただろうし、われわれプロジェクトグループにとっても痛手だった。葛布の復活をライフワークにすることを決意するほど氏は葛布に打ち込んでいたのだ。職場が変わり、葛から切り離されてしまった。おまけに、初めて経験する複式簿記などを使った財務管理の勉強を余儀なくされ、異動当初は鬱々とした毎日だったことだろう。それでも、同年六月六日に兵庫県氷上郡山南町中央公民館で開催された「ふる里を知る科学講演会」にはクズ殻草鞋(わらじ)、クズの靱皮(じんぴ)で漉いた和紙を携えて駆け参じて下さった。

 

苦境を乗り越えて、よく頑張って下さった内田さんのお陰で、平成五年三月には、前出の「掛川の葛布」、ならびに『森の都「葛の里」構想と機械化による葛布製造の手法』のタイトルをつけたB五判約六十頁にわたる提案書を仕上げ、市に提出することが出来た。

 

提案書の中で、葛布生産の歴史と葛布を取り巻く現状を詳しく分析しているが、何といっても圧巻は葛苧製造から葛布織りに至る間のハイテク技術の導入と葛の里づくりの企画である。この計画が実現すれば「葛つた加工施設」、「手織り葛布体験施設」、「葛布資料館」が建設され、葛布産業の振興を計り、町づくりを進めることが出来るのだ。

 

この提案書が市へ提出された直後に掛川へ出向いた。私の慰労のために高橋國男さんが設けて下さった宴席で、駿河湾特産のサクラエビとタカアシガ二を御馳走になりながら、これで「葛の里構想」は順調に滑り出すだろうと思った。 ところが、現実はそれほど甘くなかった。厄介物のクズのマイナスイメージを払拭できず、衰退の一途をたどる葛布産業の振興を前進さすのは非常に難しいと言うことだった。

 

当時、和漢薬メーカー津村順天堂を掛川へ誘致する話が持ち上がり、葛根湯(乾燥したクズの根を主薬とする和漢薬)は当社の主要商品であるから、葛根も葛布も同じ植物を用いて作ると言うことで、当節の健康食品、生薬ブームに乗せて葛の里づくりを進めようと思っていたのだが、津村は誘致できず、葛布計画は簡単には浮上出来なかったわけである。

 

平成五年六月三日付の内田さんからの手紙では、われわれが作成した提案書はまだ榛村純一市長の目に触れておらず、担当者の机の引き出しの中に眠っているとのことであった。膠着した局面を打開するために、高橋さんに同行して、私から榛村市長へ葛布産業の振興を直訴してほしいという悲痛な叫びが書き連ねてあった。読み終えて、手紙の末尾に何気なく目をやったとき、内田さんの肩書が税務課管理諸税係長となっているのには驚いた。組織の中の一員であれば、元の職場のことに口出し出来ないのは当然である。しかし、一方でせっかくの機会を逃したら、将来にわたって悔恨を残すことを憂える内田さんの心境は容易に想像できた。だから、私はすぐに高橋さんに同行してもらって市長にお会いして、伝統の手織り葛布産業の保護策を立てるとともに、葛布製造諸工程の機械化・ハイテク化を進めることを訴えたが、色よい返事は貰えなかった。

 

その後、時代の潮流はこの伝統産業に追い風をもたらさなかったようだ。挫折感に打ちのめされながらも、当初は再起を誓い合っていたものの、時がたつにつれ掛川の人たちとの間は次第に疎遠になっていった。

 

新幹線の停車駅となってから、掛川市はITをはじめハイテク産業路線に乗り換えるべきだという意見が主流を占めるようになったのかも知れないが、それと葛布の伝承とは何も矛盾するところはないと思っている。何といっても、葛布はオンリーワンの世界にいるのだから。細々ながらも手織り葛布は続いている。いつか陽の目を見る日はあるはづだ。そんなことを考えながら、平成十四(二〇〇二)年五月五日の昼下がり、姫路の繁華街、御幸通りの雑沓の中を人の流れに身を任せながらJR姫路駅への道をたどっていた。
何気なく向いのプラットホームを見ると、一羽のスズメが白い蛾のようなものをついばんで飛び立とうとしたが、それを線路の上に落としてしまった。そのままにしておこうか、くわえ直そうかとためらう素振りを見せたが、二度目にはスズメは難なく拾うことに成功して、何処へともなく飛び去っていった。それを見てると、果敢に挑戦すれば葛布も飛翔できる時代が到来するような気がして、久しぶりに掛川を尋ねてみたくなった。軌道のかなたには陽炎が立っていて、日射しはすでに夏が間近いことを告げるものだった。

 

神戸大学名誉教授 津川兵衛