葛伝統産業の振興と葛にまつわる民俗・文化の保存を考える

 

 

はじめに

 

 

これまで、クズという植物の名が新聞、ラジオ、テレビ等で取り上げられるのは、ほとんど季節の風物の紹介場面に限られていた。ところが、最近しばしばクズは様々な話題の中でマスコミに登場するようになってきた。例えば、クズを砂漠緑化に使うため、全国で約五十の小学校の児童たちが、毎年種子集めに協力していることが報道されている。筆者は昭和六十三(一九八八)年以来、毎年十二月中旬に兵庫県相生市の相生小学校へ出向き、クズについての講話をして、緑化研究に使うためにクズの種子を集めてもらっている。このクズの種子採取は、子供たちに人気のある年間行事の一つになっている。

 

葛粉原料を求めて製葛業者が訪中団を結成して、中国南部を訪れたと言うのもクズに関する最近のニュースである(注五参照)。また、島根県大田市温泉津町では地域おこしのために葛粉製造を復活させようという計画があることは、山陰地方ではよく知られている(注四参照)。わが国唯一の葛布産地である静岡県掛川市では、市当局の支援の下に葛布関係者が中心になって、伝統工芸「手織り葛布」の振興によって町おこしを進めたいという強い要望が出てきている。これは東海地方で注目を集める試みとなりそうだ。

 

このように、クズの名がマスコミを通じて人の目に触れ、耳に届く機会は増してきた。とは言っても、この植物に関心を持つのは研究者や一部の関係者に限られている。本稿の目的は、まずクズが日本人の生活とどのような係りを持ってきたかを紹介することである。クズを見たことのない人、クズを単に利用価値のない路傍の雑草としか見なしていない人、枝に巻きついて樹木を痛めつける厄介な害草にすぎないと考えている人が実に多い。読者には、古来この植物が日本人にとっていかに身近な存在であって、どれほど多くの用途をもっているかを、ご理解いただけることを願っている。

 

まず最初に、クズとの接触を通して、クズに対して日本人が抱いてきた意識と感情によって創り出されたこの植物を巡る民族・文化史への逍遥を試みよう。

 

 

一、 万葉人の心をとらえたクズ

 

 

クズはわが国のいたるところに自生しているマメ科の蔓草である。

 

 

秋の野に咲きたる花を 指折りかき数ふれば七種(くさ)の花 萩の花尾花葛花撫子(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし)また藤袴朝貌の花(巻八、山上憶良)

 

 

クズの花が咲き匂い、散りこぼれるさまは人の心を引きつけるところがあったから、上の万葉集の歌以来、クズは数えきれないほど詩歌に詠み込まれてきた。そして、秋の情趣を誘う草花の一つとして、日本人の心の片隅にいつの間にか定着したものと思われる。

 

万葉集には古人(いにしえびと)の実に繊細で豊かな感覚が伝わってくる数多くの歌があるが、次のクズの歌もその一つである。

 

 

水茎の岡の葛葉を吹きかえし 面知る子等が見えぬ頃かも(巻十二、山上憶良)

 

 

クズの葉はふだんは濃い緑の表面を見せて、裏面は人の目に触れさせないものである。ところが、今日はクズの葉は強い風に翻って白っぽい裏をのぞかせている。一方、いつも見かける顔見知りの子供たちの遊ぶ姿はない。作者はクズの葉の動きと子供たちの行動の対照的なところに目を付けている。さらに、クズの葉は風が吹くたびに濃緑の表を見せたり、白っぽい裏を人目にさらしたりするさまをオモシロイと感じて「面知る」に引っ掛けてこの歌を詠んでいる。単なる技巧だけでなくて、小さな自然に対してさえいつも観察の目を向けているこの人ならではのものがある。

 

また、古人は真葛原にはうクズには旺盛な生命力の存在を感じずにはおれなかったのだろう。

 

 

高圓(たかまど)の延べはう葛の末つひに 千代に忘れむわが大君かも(巻二十、中臣清麿)

 

 

はふ葛の絶えず偲はむ 大君の見しし野辺には標結(しめゆ)ふべしも(巻二十、大伴家持)

 

 

上の歌にみえる「はふ葛」は「千代に」とか、「絶えず」にかかる枕詞として使われ、大君に対する永遠なる追慕の念を強調している。現代人でさえ密かに何か願いを託したくなるほど、クズは勢いよく蔓を伸ばし、絶えることを知らないようである。

 

大友安麿が巨勢郎女を娉(よば)ふ時の歌、つまり求婚した時の歌と、その返歌が万葉集に出ている。

 

玉葛実ならぬ樹にはちはやぶる 神そ着くとふならぬ樹ごとに(巻二、大伴安麿)

 

 

玉葛花のみ咲きて成らざるは 誰が恋ひにあらめ吾は恋ひ思うと(巻二、巨勢郎女)

 

 

花が咲き、莢も数多く着けるが、種子が入りにくいのが葛の特徴である。このような不可思議な習性に加えて、恐ろしいほど勢いよく樹木に巻き登るクズのさまは、古人にとって畏敬すべき神聖なものとして映ったにちがいない。

 

後世になって、クズの花と葉を図案化して家紋に用いているが、クズという神聖な蔓草に「一族の繁栄をば永遠たれ」との願いを込めたものかも知れない。

 

 

二、 クズの呼び名はどこから来たのか

 

 

植物の和名がそのまま英名となって、世界中に通用するようになった例はごく希である。クズはその数少ないものの一つである。クズの英名はKudzuであり、学術論文でもこの名が使われる。米国南部で「Kudzu」の文字を見れば、人々は必ず強い反応を示す。これは、南部史に彩りを添えるほど重大なクズにまつわる出来事が起こったことによる。英語ではこの語は「カズ」と発音する。フルブライト研究員として、神戸大学農学部で一年半にわたって筆者とともにクズの栽植密度反応の研究をした米国デューク大学のトーマス サセックさんは、最初にこの語を「カズ」と発音した。私の発音を聞いて、慌てて訂正したのを覚えている。わが国でもクズのことを「カズ」と呼ぶ地方(熊本県球麿地方)があるので、それをいちがいに誤りとは言えない。ここで、英名にまでなっているクズの名の由来について想いを巡らせてみよう。

 

日本書紀(応神天皇十九年)には「冬十月(ふゆかんなづき)の戊戌(つちのえいぬ)の朔(ついたち)に天皇が吉野宮へ行幸された時、国栖人(くずびと)がお迎えして、醴酒(こさけ)を献じて歌(うたよみ)した」と出ている。また、万葉集には「草に寄す」と題した相聞歌がある。

 

 

国栖(くにす)らが春菜採むらむ司馬の野の しばしば君を思ふこのころ(巻十、読み人知らず)

 

 

上の歌に出てくる「国栖人(くずびと)」、「国栖(くにす)」というのは、上古に今の奈良県吉野郡吉野川上流に住んでいた人たちを指す。古事記、日本書紀の神武天皇神話によると、国栖の先祖は「石押分(いしおしわく)の子」と言われる。この石押分の子は、その名のとおり、大きな岩を押し開いて出て来たと言うことである。

 

「国栖」の名は「常陸国風土記」の茨城郡の条にも見えることから、同類の人々は吉野以外の土地にも住んでいたと思われる。国栖人というのは、大和国家成立以前に山地に住んでいた非稲作民で、独特の生活様式を身につけた、いわゆる「山人」の象徴的な呼び方であると言うのが通説のようだ(注八参照)。

 

国栖の人たちは山の幸の利用法を良く心得ていた。なかでも、蔓草の根を砕いて澱粉を採る特殊技術をもっていて、出来上がった葛粉を時の支配者に献上することがあったのかも知れない。また、ある時は里に出て葛粉を売ることもあったであろう。いつのまにか国栖の人たちの作った粉が国栖粉と呼ばれ、原料となる植物にはクズという呼び名が与えられるようになったものと想像される(注三参照)。

 

奈良県には「クズ」と呼ぶ地名が二か所ある。一つは吉野郡吉野町国栖で、谷崎潤一郎の短編「吉野葛」では紙漉きの里と紹介される山村である。

 

他の一つは元の南葛城郡葛村(みなみかつらぎぐんくずむら)で、今では御所市戸毛となっている。葛村の方は地名変更で葛の名は消えてしまったが、近鉄吉野線の駅名「葛(くず)」の方はそのまま残っている。この土地にも国栖と呼ばれる人たちが住んでいたのであろう。吉野郡の国栖とまぎらわしいので、「葛」の字を当てて区別したのではなかろうか。

 

近鉄葛駅で下車し、しばらく田圃の小道をたどると、美しく澄んだ川のそばにある工場に出くわす。澱粉工場特有のすえた臭を風が運んでくる。ここ御所市戸毛には大手の製葛業者があって、今でもクズとは縁の深い土地柄なのである。

 

 

三、クズにまつわる古事、説話の世界

 

 

(一) 葛蔓の注連縄(しめなわ)

 

 

須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴狼藉ぶりに天照大御神(あまてらすおおみかみ)は驚き恐れて天の石屋に籠られてしまったので、葦原中国(あしはらのなかつくに)は真暗闇になってしまった。すると、あらゆる邪悪や禍がいっせいに姿を現した。これは、古事記に出て来る「天石屋戸(あめのいわやど)」の冒頭部である。神々は天の安河(やすのかわ)の河原に集まり、大御神に石屋から出て来ていただく方策を考えた。石屋の前で神々がドンチャン騒ぎをすると、大御神は「何事だろうか」と訝って、天の石屋戸を細めに開けて覗かれた。そのとき、戸のそばに隠れていた天手力男神が大御神(あまのたずからおのかみ)の手をとって外へ引き出した。すぐに、布刀玉命(ふとだまのみこと)が注連縄を大御神の後に引き渡して、再び石屋の中へお隠れにならないようにした。このようにして、天照大御神がお出ましになると、高天原(たかまがはら)にも、葦原中国にも陽が射し始め、ふたたび世間は明るくなったと言うことである。布刀玉命が張り渡した注連縄はクズの蔓製であったと言い伝えられており、この神話に基づいて、クズの注連縄を神事の際に使う風習が残っている土地がある。

 

静岡県磐田郡水窪町西浦にある西浦観音堂では、旧正月十八日から十九日の朝にかけて、五穀豊穣、無病息災、子孫長寿、水火難除けを祈願して神事の田楽を催す。言い伝えによると、養老三(七一九)年に僧行基がこの地に滞在して、観音像と二十四個の面を彫り上げたことを祝ってこの神事が始まったそうである。

 

毎年旧正月になれば、代々クズの蔓採取役を務める家の者が山から蔓を取ってきて観音堂に奉納する。田楽祭の当日には、観音堂から楽堂まで二十メートルの間にクズの蔓(越年茎)製の注連縄を張り渡し、これに絵馬を吊り下げる。西浦の祭礼に迎えた諸神を本郷(ほんごう)へお送りする「しずめ」の神事を行う間は、参拝者は注連縄より上手におり、縄の中へ入ることを禁じられている。江戸時代に「しずめ」の最中に飛び込んできた一匹の大きな白犬は、たちどころに頭を割られて頓死したそうである。そこは俗界に生きる者がみだりに立ち入れない結界、つまり聖域なのだ。

 

注連縄を張り巡らせて清浄な神座をつくる習俗は、さまざまな祭祀(さいし)を通じて厳しく守られてきた。普通、葉のついた生竹を立て、それに稲わらで出来た注連縄を張り渡し、半紙で作った四手(しで)を吊り下げるのである。

 

中国古代(BC一一〇〇年~BC六〇〇年)の詩歌集「詩経」にみえる「葛覃(かったん)(葛が伸びゆく)」「樛木(きょうぼく)(しだれ木)」あるいは「旱麓(かんろく)(旱山の麓)」と題する詩では、クズが茂るさま、あるいは木にまとうさまは神の加護と祝福を意味するものとしている。古人は、樹木にまとうクズに圧倒されて神聖感を抱き、やがて祝頌を発想する方向へと進んでいったのではないか。だから、祭祀の際にクズが注連縄の形で取り入れられるようになったものと思われる。

 

クズの注連縄を張る習慣は西浦だけのものなのか、あるいは他の土地にもあるのか筆者は知らない。たとえ一個所であっても、この風習が伝承されてきたこと自体、クズと日本人との浅からぬ係りを意識させずにはおかない。

 

 

(二) 国栖奏

 

 

奈良県吉野郡吉野町国栖の吉野川沿いの崖上にある浄見原(きよみはら)神社の舞殿では、毎年旧正月十四日に「国栖奏」が現地の継承者によって上演される。風折帽と呼ぶ烏帽子(えぼし)をかぶり、桐竹鳳凰の模様を染め抜いた狩衣を着た古代の出立で、右手に鈴を、左手にサカキを持ち、鼓翁と笛翁が奏でる音曲と謡翁の雅楽調の歌に合わせて舞翁が舞を披露する。舞台の脇には、古代に天皇に捧げられたと言う吉野特産の御贄(おにえ)(献上品)が並べられている。

 

「国栖奏」の原形は、古事記の「国栖の歌」にあるようが。大雀命(おおきざきのみこと)(後の仁徳天皇)の即位にともなって行われた大嘗会(だいじょうえ)には、吉野の国栖の人たちが木の実、赤蛙、茸、鮎などの御贄を持ってやってきた。大雀命の帯びておられる太刀を見て、大いに誉めそやして歌い、また横臼を用いて醸した酒を献上した。御贄を献じて歌舞を奏したのは新帝に対して国栖の人たちが服従を誓う儀礼であった。のちに儀式化して、大嘗会や宮中での諸節会の際に、この古代歌謡が奏せられていたようである。

 

中世の頃には、菊花宴として知られる旧暦九月九日の重陽の節供には天皇が紫宸殿においでになった。その時、御帳台の左右には茱萸(しゅゆ)(カワハジカミ)の房を入れた袋を掛け、前には菊をいけた花瓶を飾る。そして、紫宸殿の南庭を仕切った承明門の外では吉野の国栖の人たちが「国栖の奏」を演奏するのがこの祝宴の習いであった。

 

平成二()一九九〇年十一月二十二日から二十三日にかけて行われた現代の大嘗会でも、千数百年前から伝わる「国栖の古風」が秋田の風俗歌とともに歌舞された。晩秋の夜の冷気の中で、紫垣内の幄舎(あくしゃ)から笛の音に乗って流れてくるこの歌は古代の雰囲気を醸し出していた。

 

 

(三) 新嘗祭(にいなめまつり)のこと

 

 

古事記の「天の岩屋戸」事件のきっかけをつくった須佐之男命(すさのおのみこと)は、神大市比売(かむおおいちひめ)を娶って二神をもうけた。その一人大年神(おおとしのかみ)は天知迦流美豆比売(あまちかるみずひめ)を娶って十神裔(しんえい)をもうけた。そのうち、第八子羽山戸神(はやまとのかみ)は大気都比売神(おおげつひめのかみ)を娶って八神裔をもうけた。末子に当るのが久々紀若室葛根神(くくきわかむろつなねのかみ)である。この神の名は材木で新室を建て、蔓草で結い固める意味を持つ。そして、新嘗祭を行うための屋舎造営を司る神であると言われる。どこにでもあって入手しやすく、軟らかいので結びやすく、しかも強靭な蔓といえば、クズのことである。釘のなかった時代、建物を作る際にはクズの蔓が柱の結束などによく使われたものと思われる。久々紀若室葛根神は優れた建築技術を持った大工の棟梁の役目を受持っていたのである。

 

新嘗祭(旧祝祭日の一つで、第二次大戦後は勤労感謝の日【十一月二十三日】となっている)は、天皇が新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に供え、自らも食し、秋の収穫を無事に終えたことを感謝する宮中の行事であった。天皇が皇位を継承された年に行う新嘗祭は大嘗祭(だいじょうさい)と言い、天皇一代に一度行う大祭である。平成の大嘗祭でも古式に則って廻立殿(かいゆうでん)、悠紀殿(ゆきでん)、主基殿(すきでん)、その他幄舎(あくしゃ)が建てられ、柴垣が巡らされていた。現代では造築法はずいぶんと変わっただろうが、クズの蔓で柱を結えた神代の手法がどこかに残っていないだろうか。

 

なお、大嘗祭では神饌(しんせん)(神へのお供え)の行立(ぎょうりつ)が取り行われる。采女(うねめ)によって運ばれる八足机(はっそくづくえ)の上には蒸し米とアワを入れた御飯筥(おものばこ)(天皇がお食べになる主食を入れた丸型容器)や他の食べ物が載せてある。御飯筥はクズの蔓で出来ていると言うことである。こんなところにもクズは生き続けているのである。

 

 

(四) 葛の呪文

 

 

柳田国男の「日本の昔話」には岩手県上閉伊(かみへいい)郡で収録した「聴耳頭巾(ききみみずきん)」の話が出てくる。善人の爺さんが氏神のお稲荷様から不思議な頭巾をもらった。その頭巾を被ると草木や超獣たちの話が理解出来ると言う。爺さんは鳥たちの会話を盗み聞きしては、どこそこに病人が出たのは家屋を建てたときに生き物に迷惑をかけているからだと知った。八卦屋になりすまして病人宅に出かけて行き、枕もとで「二十里這うたる葛の葉は這えば二十里」という唱えごとを何度も繰り返してから、病気の原因を教え、それを取り除かせると、病人はたちまち回復したというのである。

 

物語の中では「葛の呪文」の意味については何の説明もない。たちまち広がって土地を占有するクズのように、易の感を冴え渡らせて、四方八方に張りめぐらすための売ト者の呪(まじない)なのだろうか。筆者はその呪文の正確な意味を知らない。

 

クズは、以上に述べた神話の時代の遺風や古事、伝説の中で語り継がれて来ただけではない。現代でもクズは日本人の日常生活の一部に密着した存在であることを次に紹介しよう。

 

 

四、日常生活の中に生き続けるクズ

 

 

(一) 結束料として

 

今昔物語には、諸国を行脚していた僧が猿神の生贄にされかけたが、前世からの宿縁によって猿神を退治し、長者となって富福に暮らしたという話が出ている。この僧は猿を捕えて葛(かずら)で柱に縛りつけたと言う。葛(かずら)とは蔓草の総称であって、ただ一つの植物を指すものではない。しかし、どこにでもあって、ものを縛るのにうってつけの蔓と言えばクズの蔓である。筆者は、この物語で猿を縛ったのはクズの蔓ではなかったかと思っている。今でも葛粉製造に従事している人たちは、山で掘ったクズの根を運びやすいように束ねるのにクズの蔓を使う。

 

次の話もまた、ものを縛るのにクズの蔓を使う習慣があったことを教えてくれる。

 

島根県に大田市温泉津町の山間地にある西田地区は、石見西田葛の産地として知られている。またそこは、刈り取りを終えた水田にヨズクハデと呼ばれる珍しい形の稲木が立ち並ぶため、秋には写真家などがよく訪れる土地でもある。ヨズクと言うのはフクロウのことで、ハデとは稲木のことである。長さ6メートルの丸太四本を先端から一メートルのところで組み、クズの蔓で縛り下端を四方に広げると四角錐の稲木が出来あがる。この稲木に約五〇〇の稲束を掛けると、そのさまはまるで塔の先端に巨大なフクロウが翼を休めているように見えることから、ヨズクハデの名が与えられたと言われる。クズの蔓は柔らかくしかも強いので、昔は荷物の梱包、家屋の建設などの際に広く結束料として使われていたものと思われるが、稲木を組み立てるのにクズの蔓を用いる習慣が今日まで伝承されて来たのは驚きである。

 

(二) 籠に編んで

 

米国南部のジョージア州アトランタ近くのワルトン郡モンローという小さな町(人口約五〇〇〇)では、クズ・フェスティバルを復活させたと言う便りを、郡商工会議所事務局長のフランシス E.エンスレンージョーンズさんから受け取った。クズ・フェスティバルというのは、土壌保全のためにクズ植栽キャンペーンが盛んに行われていた一九四〇年代の催しである。同封のアトランタ・ジャーナル紙の一九八八年六月十二日版は「芸術と科学が厄介な植物を活用し得る。」という見出しで、第一頁全面をクズの記事に費している。クズを厄介物扱いしても、どうしても駆除出来ないものであるなら、それを利用する道を捜すべきだと言うのが論旨である。自らクズ・アーティストと称するアトランタ在住のキャロル スタングラーさんは、クズの蔓でオブジェ風の置物とか、ファッション・バスケットを編んでいる。はじめのうちは蔓の抵抗にあって思い通りにゆかなかったが、使い馴れると灰色の柔軟なその素材に好感を持つようになったと言う。紙面を飾るカラー写真ではスタングラーさんはクズの細い蔓で編んだつばの広い帽子をかぶり、同じく太い蔓製の大きなバスケットの中に、頬づえをついておさまっている。

 

昔は、わが国ではクズの蔓はタケ、ヤナギ、トオなどとともに籠、行李等を作るのに使われていたのであろうが、今では化学合成の素材におされて、すっかり姿を消してしまった。米国ではクズの蔓を使った工芸が流行して、わが国にも広がるようなことがあれば、それはまさに文化の逆輸入ということになる。

 

 

(三) クリスマスの花輪に

 

神戸大学の近くに、大きな丸石を敷きつめた外装が施されている洒落た感じの喫茶レストランがあって、若いカップルで賑わっている。昨(一九九一)年のクリスマス前に側を通りかかると、十字路に面した丸石の壁に飾った直径一メートルもあるリースが目にとまった。もしやクズ製ではと思ったので、近づいてみた。花輪の芯はまさしくクズの旧茎(越年茎)を編んだものである。細い蔓と太い蔓を巧みに組合わせた骨太の、粗剛な感触をもつ花輪は石壁の肌によく調和して美しかった。クズの旧茎ををリースの芯に前から使ってみたいと考えていたものであるから、誰かに先を越されてしまったという思いを今でも拭いきれないでいる。

 

 

(四) 葛粉

 

昭和天皇は崩御の直前に葛湯を召し上がって、美味しかったとおっしゃったと、新聞は大きな見出し付きで報道した。これは製葛(葛粉製造)業にたずさわる者にとっては大いに誇りとなったに違いない。現在、製葛は奈良、福岡、鹿児島、石川、福井、島根県などで行われており、葛粉は主に和菓子原料、調理材料として使われる。高級料亭に限らず、一般家庭でも「あんかけ」とか「濃餅(のっぺい)」をつくるときには今でも本葛(ほんくず)(混ぜものは入っていない純粋の葛粉)にこだわる人がいる。

 

わが国では年間四〇〇トンの葛粉が生産されているが、半分は中国と韓国から粗製葛を輸入してまかなっている。葛粉製造をすべて手作業で行っていた時代には、クズ澱粉の歩留まりは約八%であった。しかし、甘藷澱粉製造用機械を導入した最新の方法では約十一%にまで向上している。わが国には原料のクズ根は豊富にあるが、掘り手がないため原料は入手困難に陥っている。

 

製葛工程では、まず破砕したクズ根を水中で揉みほぐすようにして組織中の澱粉を取り出す。繊維は篩別して除き、澱粉を容器の底に沈殿させる。上澄み液を除くと粗製葛が得られる。粗製葛を清澄な水に懸濁し、澱粉の沈殿、上水の除去を繰り返し行うことによって精製された葛粉が出来あがる。

 

潰した植物体から水を用いて澱粉を取り出し、精製してゆく工程を水晒し法と呼んでいる。この技法の開発によって、たとえ有毒物質を含む塊根、塊茎、りん茎類であっても食用に供することが出来るようになった。だから、以前は食用にならず、放置されたいた植物も栽培され、食生活に組入れられるようになったのではないか。しかも、この技法は現在の食品産業の基本技術である粉砕、篩別、ろ過、沈殿、攪拌、溶解、懸濁の操作をすべて含んでいる点で注目すべきである。

 

 

(五) 葛布

 

衣服を作るために利用してきた食物繊維には樹皮繊維と草皮繊維がある。前者にはカジノキ、コウゾ(クワ科)、クズ、ヤマフジ(マメ科)、シナノキ(シナノキ科)などの繊維が含まれ、後者にはカラムシ(イラクサ科)、アサ(クワ科)などがある。樹皮繊維は堅靭であるため、灰汁、糠などを使い、水で晒して、柔らかくして採線しなければならないので、柔軟で績ぎやすい草皮繊維へと次第に移っていったと考えられる[注一参照]。樹皮繊維から作る掛川市の手織葛布が地場産業として現存するのは、極めて特異な例と言わねばならない。

 

古墳時代前期に造築されたと推定される福岡県菖蒲ヶ浦一号墳から、目の粗い葛布(織り密度(八~九)×(六~七)が付着した方格規矩(きく)鏡が出土しているので、この頃にはすでに葛布を使っていたと思われる。中国では、江蘇省呉県草鞋山遺址(そうあいざんいし)の下層文化層(馬家浜期(ばかひんき)、前四三二五年)から密度一〇×(一三‐一四)の葛布が出ているので[注九参照]わが国でも葛布の利用は縄文時代にさえ遡ることが出来るかも知れない。

 

万葉集にはクズ繊維を布に織り、衣服にしていたことを示す数首の歌が収められている。

 

 

女郎花生ふる沢辺の真葛原 何時かも絡りてわが衣に着む(巻二、読み人知らず)

 

 

霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞くや 卯の花の咲き散る岳に田葛引く少女(巻二、読み人知らず)

 

 

右の歌から、原料となるクズの若茎は容易に手に入ったので、葛織物が普及していたことがうかがえる。

 

現在のところ、葛布産業が存在するのはわが国では掛川市に限られているが、佐賀県唐津市佐志と伊万里市波多津木場(はたづこば)で最近まで行われていた[注九参照]。また、鹿児島県串木野市の西約四〇キロメートルの沖合に浮かぶ上甑(かみこしき)島の上甑村瀬上でも昭和三〇(一九五五)年頃まで葛布を織っていたと言うことである[注二参照]。昭和(一九二六~一九八八年)の初めまでは、瀬上地区ではクズの新茎の生育をよくするために、共同管理をしていた原野に火入れをしていた。そして、「口明け」という採取解禁日が来ると、日と人数を決めて「焼けクズ」と呼ぶ若い茎を取りに出かけた。

 

太くて、勢いよく伸長した蔓をふたひろぐらいの長さで釜で刈り取る。採線のために蔓の根元から先端に向かって皮を剥(む)くのであるが、芯の部分を歯で噛んで皮層の部分を手で引っぱってむく剥く。節の部分にくると、葉を左右で持ち、右手の爪で繊維を切らないようにして葉の付根の部分の皮を丁寧に剥く。節をすぎると次の節の手前まで一気に皮を手で引っぱって剥くのである。これと比較すると、掛川市で現在行われている採線法には改良の跡がみられるが、それでも、クズが長い年月にわたって利用されてきたわりにはその進歩は遅々たるものであったと言わざるをえない。幸い、静岡県浜松工業技術センターの繊維加工技術スタッフの協力をはじめ各界の助言を得て、クズづくり(クズの繊維から糸を作ること)工程の機械化が計られているので、この平成の時代に葛布製造史上特筆すべき技術革新が行われるものと期待している。

 

京都市中京区新町の吉田幸次郎さんは、「生活工芸館‐無名舎」と名付けた邸宅を一般に開放し、同家に伝わる衣服、その他の布製品を四季折々に公開している。無名舎の夏座敷を訪れると、鴫(しぎ)が遊泳するさまを描いた暖簾(葛地鴫遊泳図四巾暖簾)が座敷と中庭を仕切るようにして掛っている。人が側を通り過ぎるだけでもこの暖簾はゆらぐ、夏の京都盆地の午後は風が絶え、うだるような暑さである。そんなときでさえも、この暖簾はかすかにゆらいで涼しさを呼び寄せてくれる。こんなところにも先人たちがあみ出した生活の知恵が息づいているのである。

 

吉田家の所蔵品目録の中には、他にも幾つかの葛布製品がみえる。「紫葛地丸に十字紋火事装束胸当付(火事装束)」、「紺葛布単半合羽(道中合羽)」、「白茶葛綾地縞野袴(野袴)」、「藍葛布地肩衣(かたぎぬ)(裃の上半分)」、「山吹風葛布肩衣」など、いずれも実用に耐えてきたものである。

 

葛布製造および葛織物に関連する資料なら、掛川市の旧家にはかなりの品数が保存されているはずである。散逸する恐れもあるので、公的機関で集中して収蔵すれば、文化財としてそれらの価値が生かされると思われるが、いかがなものであろうか。

 

 

(六) 現代版葛履

 

詩経の「南山」と題する詩には「葛履五兩(葛の履(くつ)は五つ兩(ぞろ)い)」また「葛履(かっく)」には「糾糾(きゅうきゅう)たる葛履(おんぼろの葛の履)」という語句がみえる。葛履とはクズの蔓から作った夏用の履物である。底を二重にした履物を舃(せき)と言い、ひとえのものが履(く)である。周礼(しゅうらい)(周代の官制を記した書)によると、履人という官職があって、王や后の履物を作っていたそうである。葛履を作るのに葛布と同様に新茎(当年茎)の靭皮繊維を使っていたのか、あるいは他の部分を使っていたのかは筆者は知らない。どんな形をしたものだろうか。今でも中国で葛履を作っているのだろうか。訪中の際にはぜひとも調べてみたいものである。

 

わが国でも、葛履に類するものを使っていた時代があったことは間違いないのであるが、クズの蔓で履物を作る習俗などはもはや廃れてしまっているものと思っていた。ところが、静岡新聞平成三(一九九一)年九月一五日版の「元気に葛がら草履編み」の記事から葛履物を作る習慣が残っていることを知った。静岡県磐田郡豊岡村虫生(むしゅう)に住む松居喜代蔵さんは九九才といえどもお元気である。二十才の頃から始めた「葛がら」による草履、わらじ作りを今でも続けている。「葛がら」というのは、葛布用に靭皮繊維(じんぴせんい)を取ったあとに残った新茎のスポンジ様の芯の部分のことを言う。掛川の葛織物の盛期には、葛がらが大量に出た。廃棄物となる運命にある葛がらの利用法として考え出されたのが「葛がら草履」である。葛がらで安打草履、わらじは稲わらで作ったものよりも軽くて、耐水性に優れており、しかも滑りにくいので、鮎釣り愛好者の間で人気を得ている。

 

先人が葛がらの長所に目をつけ、履物に編んだのは一種の生活の知恵と言えるのではないか。茶畑に雑草が生えるのを防ぐために、刈り取ったススキなどを敷くが(マルチ)、葛がらはその代わりにもなると思われる。これをも含め、時代の要請に見合った葛がらの用途を見つけ出すことこそ、伝統工芸を継承する者の務めであろう。

 

 

(七) 生薬葛根(かっこん)

 

中国の話である。臨界の章安鎮という村に蔡という大工がいた。ある宵の口のこと、仕事からの帰り道に東山という墓場のあるところを通りかかった。祝い酒でもしこたま飲んだのであろうか、彼は泥酔していたのである。そこに放置されていた棺桶を自分の家の寝床と勘違いして、その上で寝てしまった。夜中に酔いが醒め、寒さで目をさましたが、真暗闇で進むことが出来ないので、棺の上に座って夜明けを待つことにした。すると、棺の中で声がした。

 

「私は某家の娘です。病気になって死にそうです。私の家の裏庭の葛兄ちゃんが私に祟っています。法師に頼んで葛の霊を取り除いてください。」

 

主人が案内した裏庭はすっかりクズに占領されてしまっていた。蔡は這いつくばってクズの蔓を刈り払い、大きな根を掘り当てた。根に傷を入れたら血が出てきたのでそれを煮て娘に飲ませたら病気はすぐに治った。

 

この怪奇談は明代に陶宗儀が著した「輟畊録(てっこうろく)(耕をやめて、しばし憩う)」に出てくる話である。血と見えたのは根に含まれる褐色の汁液で、それが娘の病気に効いたのだろうか。このことについては著者は何も伝えていない。

 

クズの根をサイの目に刻んで乾燥したものは葛根と呼ばれ、漢方では主薬として処方される。葛根が処方される和漢薬には次のようなものがある:
葛根湯(かっこんとう)、葛根黄連黄芩湯(かっこんおうれんおうごんとう)、葛根紅花湯(かっこんこうかとう)、葛根湯加川芎辛夷(かっこんとうかせんきゅうしんい)、桂皮加葛根湯(けいひかかっこんとう)、升麻葛根湯(しょうまかっこんとう)、参蘇飲(じんそいん)、清胃潟火湯(せいいしゃかとう)、銭氏白朮散(せんしびゃくじゅうさん)、独活葛根湯(どっかつかっこんとう)、奔豚湯(はんとんとう)(注七参照)。

 

これらのうちでもっとも有名なものが葛根湯である。中国の経験医学書である「傷寒論」は、次のような症状を示す風邪に葛根湯が効くという。

 

① 体力が中等以上にある人で、頭痛、悪寒、発熱の基本症状がある。② 汗が出ない。

③ 首の後ろがこる。

 

風邪をひくと憂鬱な気分になる。また、風邪は万病のもとと言われているように、さまざまな重病の引き金になるので、昔から風邪には葛根湯が重宝がられてきた。しかし、どんな病人にもあてずっぽうに葛根湯ばかり出していた医者があったものだから、落語の「葛根湯医者」に出てくるような話が生まれたのである。最近は葛根湯エキスに新薬を配合した和洋折衷タイプの風邪薬が販売され、売上を伸ばしている。このことが大いに貢献しているものと思われるが、葛根の輸入量は急激に増大している。それにもかかわらず、葛根の国内生産は減少傾向にある。葛関連産業を振興して「地域おこし」を計画している市町村では、葛根製造を加えるのも一計ではないかと思われる。クズという植物にまつわる民族・文化を調べてゆく過程で、一つの産業を形成してきた葛根製造をないがしろには出来ないことに気付いた(注六参照)。その歴史的資料を大切にしたいものである。

 

 

(八) 手漉き和紙

 

今(一九九二)年戴いた年賀状の中に、クズの花と葉を色刷りした上にベージュ色の薄い手漉き和紙を貼り、ちょうどレースのカーテン越しにクズを眺めるような趣向をこらしたものがあった。これは静岡県掛川市役所に務める内田定男さんの手によるものである。賀状に貼った和紙は、高知県土佐市の池加津夫さんがクズの若い茎を漉いて作ったものだと言う。当時、内田さんは掛川市の林業山村活性化構造改善事業を立案し、それを推進しなければならない立場にあって、クズを森林資源の一つとしてとらえ、利用することを計画していた。

 

クズ利用の一環として、和紙製造も検討する価値がある。和紙原料と言えば、すぐにコウゾ、ミツマタの名を思い浮かべるが、三重大学教育学部教授木村光雄さんによれば、稲わら、ススキのほか、チューリップ、ユリ、スイセンのような草花類でも製紙原料になると言うことだ。紙多用の時代に、森林資源保護の立場からも、山野に自生するクズに和紙原料を求めることは非常に意義深い。

 

クズ和紙はハガキ、名刺等への用途がある。趣味の面では、クズの手漉き和紙は造花、はり絵、折り紙、紙人形作りなどの材料として使える。独特の風情を持っているので、工芸素材としていろいろな利用の途が期待できそうだ。

 

 

むすび

 

 

クズを尋ねて、人があまり立ち入らない歴史の枝葉への散策を試みた。歴史の片隅にはささやかな逸話が密かに眠っているものである。「クズ」をキーワードにした検索によって、時間的にも、空間的にも大いに隔たりはあるが、さまざまな出来事が拾い出される。

 

クズは一般には栽培されることがなかったにもかかわらず、芳香を放つ美しい花をつけることに加えて、地表をほ伏したり、支柱に巻き上がったりする特異的、かつ旺盛な生育ぶりが人の心をひきつけるところとなったのであろう。もちろん、クズが幅広い用途を持つことも、この植物を馴染み深いものにしてきた。

 

クズは産業、工芸、芸能、信仰、宗教などさまざまな領域で人々の暮らしの中に溶け込み、一種の習俗として定着してしまっている部分さえある。クズに関連する産業、技芸あるいは習俗は長い歴史の試練をへてきたものであるから、すでに立派な文化財としての価値さえ備えるに到っている。とは言うものの、現代のような目まぐるしく移り動く時代の狭間にあっては、いつ消えてしまっても不思議ではない存在である。このような文化遺産というべきものを絶やさないようにしようとする細やかな心遣いこそ、民族や人類の将来にとって大切にしなければならないものである。

 

産業として自立してゆけるものは支援し、亡ぼすに惜しい伝統的技芸、芸能には保護の手を差し伸べ、消え去ろうとする良き習俗に保存の対策を講じなければならない。また、現存する関連資料の散逸防止も急務である。そのためには、中核となる葛産業・葛文化伝承館のような施設が必要なことはいうまでもない。クズに関連する産業や技芸、クズにまつわる民俗・文化の掘り起こしを計り、それらの価値を再発見し、地域の振興策として取り入れることこそ伝承館設立の狙いとすべきである。

 

葛粉、葛布、葛根湯という伝統的産品は、医薬、食品あるいは室内装飾品という形で現代の生活に受け入れるに足る十分な素地を持つ。また、製品や関連技術は現代産業といつ、どんなところで結びつくかわからない。したがって、伝承館はクズに関連する産業や民族にまつわる資料を収蔵する単なる博物館としてではなくて、その産業や民俗・文化を将来のために生き延びさせる役割を負わねばならない。そのためには、それは後継者の育成、製品開発、工房や展示場および観光客に体験の場を与えることができる発展的、かつ総合的な施設にする必要がある。

 

静岡県掛川市は、葛布製造を中心とした「葛つた加工施設」、「体験・展示施設」「葛文化資料館」(いづれも仮称)の三施設の建設を企画・検討している。「生涯学習まちづくり土地条例」に基づく「森の都まちづくり」の方法として地元住民から要望書が提出されたと言うことである。島根県大田市温泉津町では約二五〇年前に建てられた旧本陣を修復して、葛粉製造に関する資料収集に主眼を置いた「葛伝承館(仮称)」を設立したいという希望を持っている。いづれも、筆者にとっては耳よりな話で、着工の日が待ち遠しい。

 

本稿を書き終えようとした頃、思いがけない出来事が持ち上がった。兵庫県氷上郡山南町でクズを使った町おこしが計画されたのである。山南町は大阪から約一時間半の道程で、JR福知山線谷川駅を中心とする住民約一五〇〇〇人の町である。この街は過去にクズと特に縁があったというわけではない。ここは昔からオオレン、その他薬草の産地として全国的に知られており、県の薬草試験地に指定されている。薬草の他に花卉、庭木の育苗を主体とした農林業で生計を立てている純然たる農村地帯である。地下ごと、各地で里山のよさを見直す機運が高まってきて、里山の保全・管理が叫ばれるようになったが、里山で目立つのはクズの繁殖ぶりである。厄介者の葛の駆除に精を出すだけでは能がない。山南町の人たちはクズ利用の途を見い出し、地域おこしに活用して、里山の保全につなげていこうと考えた。

 

平成四(一九九二)年六月六日には「わが町の葛を活かそう」という課題で、山南町と神戸新聞社主催の「ふる里を知る科学講演会」が催された。筆者は演者として招かれ、スライドをまじえながら、本稿で述べた内容の公演を行った。会場には葛の旧茎で編んだ花入れ、花輪がさっそく町婦人会の有志によって出品された。静岡県掛川市からは葛布製の色紙掛け、葛がらわらじ等が当日会場へ持参された。高知県土佐市から葛の手漉き和紙を取り寄せ展示した。いずみ会(食生活改善推進員団体)による葛湯、葛饅頭、葛餅の試食会もあった。四〇〇名以上の出席者を得て、好評を博したので、主催者側は大いに面目を施した次第である。

 

山南町では「町おこし」の目玉に邪魔者のクズの旧茎を花入れ、花輪、籠、電気スタンドのほや等に編んで、装飾用工芸品あるいは実用品として日常生活に取り入れようと言うのである。これまで数回にわたり講師を招き、葛編細工の講習会を開いて技術の習得に務めてきた。受講者は技術の上達が速く、かなりの出来栄えの作品が並んだ。さらに研鑽を積めば、十分評価に耐えるものが出来るに違いない。なお平成五(一九九三)年一月には「葛のつる工芸研究会」を発足させて、技術の向上に励んでいる。今後の展開が楽しみである。

 

「クズで地域おこし」を計画する市町村が名乗り出てくれば、一堂に会して交流を計り、協力して発展の方向を探ってゆくのもよい。

 

米国南東部のクズと縁のある町と姉妹都市関係を結ぶ案などは、どんなものだろうか。一九三〇~四〇年代には、米国では南部諸州を中心に、土壌侵蝕を防止するために、国策としてクズの植栽が奨励された。当時、クズは大いにもてはやされて、種子をわが国から輸入し、数百万ヘクタールの面積に植えられた。ところが、今ではそれらは駆除の対象になり下がっている。日米で共同して活用の途を探し求めてゆけば、何らかの展望が開けてくるものと思われる。努力と工夫を要する共同作業は、日米両国の相互理解と親睦を増すうえで大いに役立つはずである。こんな時に、葛産業・葛文化伝承館が在り来たりでない文化交流の拠点となることこそ筆者の願いである。

 

 

謝辞

 

 

本稿を草するにあたって、奈良県吉野郡吉野町役場植田義則氏、静岡県掛川市役所内田定男氏、兵庫県氷上郡山南町役場瀬川千代子氏、島根県太田市温泉津町の町おこしグループ「西田会」三明慶輝氏には写真その他資料の入手にご尽力を賜った。ここに改めて感謝の意を表する。

 

 

引用文献

 

 

(注一) 遠藤元男(一九七一)織物の日本史(NHKブックス)pp.二十一~二十三

(注二) 竹内淳子(一九八六)甑島に藍はかげろふ 葛を織る村、あるくみるきく二三三、四、三二

(注三) 津川兵衛(一九七二)クズの利用史 葛粉について、草地生態十三 十五~二九

(注四) 津川兵衛・T.W.Sasek(一九九一)葛粉製造の復興で町おこし<石見西田葛 島根県太田市温泉津町>、食品工業三十四(七)、六十八~七十六

(注五) 津川兵衛・T.W.Sasek(一九九一)未利用澱粉資源 粉葛(Pueraria thomsoni Benth.)、食品工業三十四(十八)、七十~七十五

(注六) 津川兵衛・T.W.Sasek・小坂昇(一九九二)蘇った生薬、葛根湯の主薬ー葛根、食品工業三十五(二)、六十七~七十三

(注七) 難波恒雄(一九八〇)原色和漢薬図鑑(上)pp.三九五~四二六、保育社、東京

(注八) 野本寛一(一九八七)焼畑文化の形成、大林太良編、日本の古代十、山人の生業pp.百十九~百七十八、中央公論社、東京

(注九) 布目順郎(一九八八)絹の東伝、pp.二十八~三十三、小学館、東京

 

神戸大学名誉教授 津川兵衛